4. 自然の認識と産業革命 |
4-1.層位学の父 ステノ |
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ステノ(ニールス・ステンセン)は,1638年にコペンハーゲンに生まれ,イタリアで医師をしていましたが,結晶学や層位学でいくつかの重要な法則をみちびきだしました。しかし、彼は異端の教徒だと教会の非難と圧力に耐えられず、新教ルーテル派からカトリックに改宗して30才以降は地質学の研究をやめてしまいました。 ステノは,水晶について研究し,「面角安定の法則」をみちびき,結晶が液体から晶出すると考えました。また,舌石(人間の舌が石化したもの)と考えられていたものが,サメの歯の化石であることを明かにして,地層や化石に興味をもち,地層から過去の歴史がわかることを明かにしました。 ステノは,層状の岩石は水平な層として沈澱し,ある時期地球の表面をおおい,そしてそれは時間的な連続をもつとして,3つの法則を述べました。それらは、「初生水平の法則」,「水平連続の法則」,「地層累重の法則」と呼ばれます。すなわち,地層は水平に堆積し,空間的な分布をもち,下の地層が上の地層よりも古いという層位学の基本法則を確立しました。 ステノは,ほぼ正しい地層の観察の目をもっていて,海の生物の化石が含まれる地層は,かつて海水の中で堆積したとし,その地層が傾斜や褶曲しているのは,地層が造山力によって乱されたためと主張しています。さらに,彼は地層は本来水平に堆積するという前提をもとに,イタリアのトスカーナ地域の地史を6段階に分けて説明し,地質断面図をしめしました。 ステノは,地殻の形成を歴史的に見ていて,はじめに生物のいない時代(原始の海)があり,次に陸地が現れ,第3の時期に造山運動があったとしています。そして,第4の時期に,ふたたび氾濫があって化石を含む地層が形成され,さらに造山運動があって,それらが地表に現れたと述べています。しかし,ステノはこの地史をできるだけ聖書の内容と一致させるために努力しました。 4-2. ニュートン ニュートンは,1668年に25才で反射望遠鏡を製作し,1687年に42才で「自然哲学の数学的原理(プリンシピア)」を出版して万有引力の法則を確立しました。また,1703年には「光学」を出版し,光の現象などについて明らかにしました。ニュートンによって,いままでの神秘的な宇宙観はほとんど駆逐され,地動説を近代科学で裏打ちされた確固たるものにしました。 ニュートンは,また遠心力の研究から地球の形が両極で偏平になった回転楕円体であることを理論的に導きだしました。 エドモンド・ハリーは,彗星の研究を行っていた天文学者で,のちにグリニッジ天文台長になりましたが,ニュートンにみちびかれて,1682年にハレー彗星の周期性を発見しました。 4-3. ライプニッツ 1646年に生まれたドイツの哲学者で,デカルト,ロック,スピノザ,ホイヘンスなどの思想にふれて,多方面にわたる業績を残しました。新旧キリスト両派の和解に努力し,数学では微積分をニュートンとほぼ同時に考えました。また,哲学では「単子論」をとなえ,宇宙の究極要素を単子と考えて,それにより壮大な神学的な形而上学を打ち立てました。 彼の地球の発展史は,「地球ははじめ,燃えさかり輝いた塊だったが,その後しだいに冷え,雨が降り海ができた。海は地球上をくまなくおおっていたが,段々低下して堆積岩ができるようになった。」というものでした。この考えは,長い間ドイツの学者に強く影響をおよぼしました。 ライプニッツは,18世紀になってドイツに学会(プロイセン科学アカデミー)を創設しました。 4-4. イギリス産業革命 イギリスは,16世紀末にスペインの無敵艦隊を破り制海権をにぎって以来,海外の市場が拡大し,商業や工業が発展しました。そのころの工業は,問屋制家内工業でしたが,ヨーロッパ諸国より一歩進んだ工業生産を行っていました。そのためブルジョアジーの台頭が早く,1642年にピューリタン革命が起こり,共和制・王制復古ののちに1688年に名誉革命によって近代国家の基礎がつくられました。 産業や領土の拡大とともにこの国では近代国家の建設が行われ,さらに産業革命がどこの国よりも最初に起こりました。 機械化は,まず紡績機械ではじめられ,動力ははじめ水車などでした。1761年には蒸気機関がワットによって改良され,さらに1781年に改良した蒸気機関は工場の動力に利用され,汽車や汽船がのちに生まれてきました。蒸気機関の発明は,それまでの産業構造を改変し,工場の規模が拡大し,都市の人口が急激に増加しました。 産業革命がはじまり,紡績業界では機械化が進みますが,その頃の機械は大部分木製で,鉄が大量に使用されはじめるのは19世紀はじめからでした。それに対して石炭は,16世紀ころから大量に使用されるようになり,産業革命によりその需要が急増しました。産業革命の進展にともなって,蒸気機関が用いられ,製鉄にコークスが消費されるようになると,大量輸送のために道路や運河の改修や整備が行われるようになりました。 4-5. 科学思想の発展とフランス革命 産業革命の進行は,それまでの社会の矛盾の認識や科学的思想の発展を呼び起こしました。フランスでは,モンテスキューやルソーなどの啓蒙主義思想家が現れ,1789年にはフランス革命がおこなわれました。 ドイツでは同じころカント,フィヒテ,シェリング,ヘーゲルなどの観念論哲学者が現れ,それぞれの立場で自然科学に認識論の基礎をあたえ,弁証法的な考え方が生まれました。 4-6. 洪水植物誌とリンネの分類学 17世紀から18世紀のはじめ,地中から掘り出されたもの(Fossil:化石)が過去の生物の遺骸であることが認識されるようになると,聖書の記述と合わせるために,大洪水の遺物と考えられるようになりました。スイスのショイヒツアーは,彼の集めた植物化石をまとめて図版にして「洪水植物誌」(1709年)を出版しました。これには,植物以外のものも含まれていましたが,形などをもと分類されていました。 ショイヒツアーはまた,1725年にロンドン王立協会に「ノアの洪水の証人」の化石を発見したという手紙を送っています。これは,1812年にキュビエによって人間の化石ではなく,両生類のさんしょううおの化石とされたものですが,当時の化石や動物についての考え方がよくわかるトピックスです。 1707年にスウエーデンに生まれたリンネはオランダで植物学を学び,動植物の命名法を提案し,自然分類学を大成しました。彼はすべての自然物を整理し,二名法を確立し,簡単ですぐれた記載を行い,異名を整理し分類学を確立しました。 このリンネの自然物を整理するという方法は,それまで神は世界の外にあって世界を支配していたという世界観を見直すことになり,18世紀の世界こそ神の姿であるという汎神論的な世界観を形成するのに大きな影響をあたえました。18世紀になって,化石,岩石,鉱物が区別されるようになり,独立した学問としてあつかわれるようになりました。
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最終更新日:2000/05/06
Copyright(C) : Masahiro Shiba