2. ルネッサンスと近代自然科学 

 

 2-1.科学の復興
 2-2.レオナルド・ダ・ビンチ
 2-3.コロンブスとマゼランの地理的発見
 2-4.地動説
 2-5.鉱物学の父 アグリコラ
 2-6.ルネッサンス期のその他の地学

  1. 古代の自然科学
  2. ルネッサンスと近代自然科学
  3. 近代自然科学の誕生
  4. 自然の認識と産業革命
  5. 水成論と火成論
  6. 古生物学と層位学の誕生
  7. 地球の歴史と生物進化

 



2-1. 科学の復興

 中世のヨーロッパは,割拠した諸候の領土によって細分され,社会矛盾がしだいに深まり,封建領主たちはいきずまりを打開する方策をさぐっていました。そのころ,東のアラビア人の国の繁栄は目をみはるものがあり,ローマ法王はじめ諸国の領主も東方への進出の機会をうかがっていました。法王は,神聖なエルサレムの地をイスラム教徒から解放するためという大義名分を掲げ,十字軍を組織しました。

 しかし,十字軍の目的は達せられず,ヨーロッパ諸国の社会矛盾は一層深まりました。そして,十字軍の遠征によって逆に利益をえた商人の台頭により,封建的制度と対立する市民階級が発生してきました。特に十字軍から一番利益を吸い上げたのはベニスやジェノバのイタリア商人でした。イタリアの貿易は地中海全体に拡大し,それによって古代ギリシャ文化を受け継ぎ中国とも交流のあるアラビア文化がヨーロッパへ流れ込んできました。

 13世紀に,イタリア商人の子マルコ・ポーロは東洋に旅し,北京でモンゴル帝国の王フビライにつかえ,「東方見聞録」を著しました。その中で,たくさんの宝石の名前をあげていたり,石炭が燃料となることや,石油についても注意をむけています。

 イタリア商人の市場が拡大していき,商品の生産が急速に増大し,もはや中世の手工業ではまにあわなくなり,工場(いわゆるマニファクチュア)が誕生します。それは,強力な市民階級の台頭につながり,1000年にわたった封建的な身分制度の崩壊がはじまりました。13世紀にめばえて,15〜16世紀に最高潮に達したルネッサンスに,自然科学も復活し,さらにマゼランやコロンブスの地理的探検とあいまって近代科学へと発展していきます。


2-2. レオナルド・ダ・ビンチ

 1452年にフィレンツェに生まれたレオナルド・ダ・ビンチは,ルネッサンスの代表のような人にされていますが,19世紀末まではほとんど知られていなかったそうです。彼は、ルネッサンスの中心的存在だったフィレンツェのメジチ家の保護のもと,芸術や科学,技術の多方面にわたり,活動をおこないました。

 彼は,建築家・彫刻家・画家として有名ですが,自然科学の面でも力学,工学,生理学,解剖学などに重要な業績を残しています。また,湾曲した川の両側における流速のちがいと堆積物との関係や,礫や地層の研究についてもきちんとした考察をおこなっていました。

 特に,化石については,正確な記載をおこない,それまでいわれていた「ノアの洪水」説を否定しています。彼は,「常に実践は正しい理論の上に構築されなければならない」と考え,実証的で合理的な精神につらぬかれていたために,多くの分野ですばらしい業績を残したと考えられます。


2-3. コロンブスとマゼランの地理的発見

 コロンブスは,1446?年にイタリアの北西部ジェノバに生まれ,ポルトガルで海図製作業を営み,イタリアの天文学者のトスカネリなどの話から,西への大航海を発想しました。この企てはポルトガル王の援助が得られず,スペインのイザベル女王の援助で実行されました。1493年に出港し,西インド諸島を発見し,1504年までに4回の航海と探検を続け,中・南アメリカへの植民を行いました。

 マゼランは,ポルトガルの航海者でしたが,1519年にスペイン王カルロスT世の援助を受けて,5隻の船で西方航海に出発します。翌年10月にマゼラン海峡を発見し,それを通過して太平洋を航海して,1521年にフィリピンに到着しました。マゼランは,この地で死にますが,残った1隻の船が1522年9月に帰国します。この探検航海によって,地球が球形であることが実際に証明されました。


2-4. 地動説

 コペルニクスは,1473年に生まれ,大学で医学を修業し,ウィーンやイタリアで天文学を研究しました。彼は,この世界は地球が中心ではなく,太陽が中心でなりたっているという考えを1543年に「天体の回転について」という本で著し,その年に亡くなりました。

 コペルニクスの説の最初の信奉者のひとりに修道士ブルーノという人がいました。彼は迫害を受けながら国々をまわり、コペルニクスの説を弁護してまわりました。しかし,そのことは教会に対する公然たる挑戦としてとらえられ,ブルーノは宗教裁判にかけられ死刑にされてしまいました。

 コペルニクスの地動説は,こまかな点になるとまだ不完全でしたが,のちにチコ・ブラーエやケプラー,ガリレイなどにによって,本格的に確立されました。


2-5. 鉱物学の父 アグリコラ

 古くから,ドイツ南部には鉱山がたくさんあり,封建領主たちは勢力を得るため,商人は富の源泉をもとめて鉱山開発をおこないっていました。鉱山では,そのころ鉱山学者や冶金学者という専門家はいませんでしたが,生産の必要にせまられ合理的な知識が無名の多くの人によって自然に発生し,成立していました。

 イタリアで数年間医学と哲学を研究したゲオルグ・バウエル(アグリコラ)は,ドイツにかえって,鉱山業のさかんなヨハヒムスタールに医者として住みつき,鉱物について興味をいだきました。アグリコラは,実際に鉱山で働く人たちの経験や発見,発明を科学の言葉に翻訳し,ひとつの新しい体系をつくりました。彼の死後に出版されたDe Re Metallica「鉱山書」(1555年)には,探鉱術・冶金術や鉱床・鉱脈・断層などに関する地質学のことがらが記され,多くの鉱物についての記載があります。

 鉱山書を出版する10年前にアルゴコラは,「化石の本性について」を出版し,その中で,化石を生物の遺物としていたり,鉱物の肉眼鑑定で今日でもおこなわれている諸特徴を記載して後世に基準をあたえています。「鉱業家は実際の技術と科学に精通していなければならない。」といって,自然や実業に密着していたアグリコラは,そのころまだひろまっていた練金術に対して軽蔑の目をむけていました。


2-6. ルネッサンス期のその他の地学

 ドイツのルネッサンスに大きく貢献した枢機卿であったニコラス・クサヌスは,コペルニクスに先んじて一種の地動説をたてていました。

 1541年にオランダのメルカトールは地球儀をつくり,その10年後には大天球儀を製作しました。彼によって科学的な地理学の新時代がひらかれ,1569年には有名なメルカトール投影図法で世界地図を完成させました。

 スイスのゲスナーは,1555年に化石をくわしく記載した図版入りの「化石の全種類について」という書物を出版しました。しかし,このような立派な図版を残したゲスナーやメルカティたちですら,アンモナイトを「ヘビの石」とよんでいました。それでも,このような本が出版されたことは,人々が化石に対して強い関心をいだくようになったことをあらわしています。

 


3. 近代自然科学の誕生

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最終更新日:2000/05/06

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