『私と団研』
団研で磨かれた私

最終更新日:2002年9月4日

柴 正博@駿河湾団研

2002年7月 団研ニュース 掲載

団研との出会い
 地質の『ち』の字も知らず、漠然と海のロマンを求めて入学した東海大学海洋学部、1年生の夏に先輩に誘われて、信州の山に地質調査に出かけた。私は、命がけの滝の登りやわけのわからないル−トマップに新しい世界が開け、地質の世界に引き込まれていった。
 真冬の天竜川上流、雪の中を歩いた赤石裂線の調査、日大の楽しい仲間に会えた富士川団研、みかんをたくさん食べた高草山団研、さらに野尻湖発掘に房総団研と、団研を転々とした。2年になって夏の学生フェスティバルをかわきりに、山陰グリ−ンタフ団研、秋間団研、瀬戸川団研、丹沢団研にも顔を出し、地質調査というか団研にどっぷりつかってしまった。そのころは、団研に出ても、いつも『金魚のふん』同様に人の後ばかりついて歩いていたので、コンパ芸は上達したが、地質調査はそれほど上達しなかった。

団研での実力研磨
 2年生の後半から、同級生の仲間と高草山団研を先輩から引継ぎ、玄武岩溶岩の中を歩きまわり、岩石記載と調査法を身につけた。また、1974年には地団研静岡支部の創設と前後して、駿河湾団研が発足し、清水市の東側にあたる庵原地域から富士川下流域の地質調査をはじめた。駿河湾団研は学生が中心で、1970年代後半には参加人数が多く、たいへん活発だった。調査ルートも1回の団研で30を超え、まとめの会はいつも白熱した。その結果、団研メンバーの地質調査の実力は磨かれていった。

富士川から掛川へ
 1980年代になると、団研に参加する学生の数は減った時期もあったが、3年生や卒業研究の学生が中心になって、団研の調査が行われた。調査地域は富士川流域から、庵原、清水市、そして静岡市にかけての広い地域にわたったが、これらの地域の新第三系や第四系の地質層序や構造を次々に明らかにしていった。このころの団研は、学生の地質調査の演習の場であると同時に、その結果から導かれたテーマを解決する卒論のフィールドでもあった。
 1990年代になって、参加する学生が減って、地域も御前崎から掛川にかけての地域へと移り、卒論学生とその後輩たちによる地質調査演習の性質がつよくなり、団研とはいうものの、卒論生の野外合宿的なものになったが、成果については着実にまとめてきた。

団研の魅力
 大学で地質調査実習が充実していなかった私たちにとって、団研は自分たちの地質調査の実力を高める訓練の場だった。地質調査がある程度できるようになるためには、地質調査の経験が必要であり、またその自然を直接見て調べる経験の中から、多くの疑問がわき、それはしばしば研究テーマを発想する機会となった。また、小さなデータの積み重ねから大規模な地質構造や堆積環境の復元などのイメージが広がるダイナミックな経験を何度も味わうことができた。
 団研ではこれらの経験を団研に参加しているメンバーと共有することできた。ひとりの考えではなく、同じ思いをもつ仲間をつくり、お互いの意見や発想を突き合わせて考えることができた。また、団研を通じて他の大学の先生や学生たちと接する喜びもあった。

団研で磨かれた実力と人格
 現在、全国で団研が少なくなっていることはとてもさびしい思いがする。私たちが学生の時は団研を通じて、多くの学生と交流がもてた。そして、お互いの地質調査の場で実力や生き方を磨きあった。これからの時代は閉鎖的な時代ではなく、主体的な人格が活躍する開けた時代になると思う。その時代では、地質調査などの活動の様式はさまざまかもしれないが、団研という仲間たちとの泥臭い活動の中で私の実力と人格はさらに磨かれていったことは確かである。


駿河湾団研へ

『ホーム』へ戻る