私のパソコン歴 |
私がパソコンと出会ったのは、1980年のことです。そのころ、私は大阪のある私立大学の付属高校の教師をしていました。学生時代はもっぱらフィールドワークや化石いじりばかりといった体をつかう研究ばかりで、後輩が大学の汎用機でFORTRANを使ってデータ処理などしていましたが、私にはまったく他の世界のこととで、コンピュータにはほとんど関心がありませんでした。 教師になったのは、先輩の岩田さんに誘われ、お世話になって就職できました。この大学の理事長は、20年後には少子化のために生徒が減って高校が半減するという危機感をもっていて、独自性をもちそれなりにレベルアップした学校を創造する目的をもっていました。 私はこの学校に教師というよりも、どちらかというと学校改革プロジェクトのSEかマネージャ候補生として参加したという意味あいが強く、そのため生徒のための授業やクラブ・生活指導などといった本来の教師の仕事以外に、教務の仕事や成績処理の仕事に仕事の重点が置かれていたような気がします。 教師になって一年目に、この学校の多くの教師がテストの成績処理で偏差値を出すために、手計算や簡易表などを用いて計算しているのを見て大変驚かされました。と言っても、私自身も簡易電卓しかなく、実際偏差値を出す段になると困っていました。そのとき、岩田さんが理科室で使っていた記憶容量が4KBの磁気カード読み取り可能なOlivetiiの電卓があったので、それを同じように使わせてもらいました。 ただし、この電卓では1教科のデータが2クラス分しか処理できず、5クラスともなると4回も処理をしなくてはならないという、とても面倒なものでした。とは言っても、手計算からするとずいぶん楽だったので使っていると、手計算の面倒な教師の方々にも人気があり、いつのまにか私は彼らのオペレータになってしまい、やはりとても面倒くさい仕事になってしまいました。 この電卓は、成績処理という仕事に使える道具ではなく、近い将来の成績処理を考えると本物の道具がなんとしても必要でした。成績処理の電子化については、この学園の他の高校の教師も含めたプロジェクト研究会があり、そこでも検討されていました。 その翌年、成績処理のための本物の小型コンピュータが導入されました。高校の予算では購入できなかったので、大学が買った形になりましたが、教頭の命令で私と岩田さんが隣の大学からこっそりとリアカーでコンピュータを運んだ想い出があります。また、コンピュータを置く部屋もなかったので、倉庫を空にして自分たちで内壁を塗装したり、電話をつけたりしてコンピュータ室を作りました。 このコンピュータはIBM5110といい、64KBの記憶容量で、当時8インチFDドライブやプリンターもセットで500万円、さらにはじめてBASICが掲載された最新鋭機でした。私たちは大阪のIBMで2日間の簡単なBASICプログラムに関する講習を受けただけで、入学試験の成績処理プログラムの作成にとりかかりました。 それからというもの、午後7時に本来の教師の仕事を終えて、コンピュータ室に入って新米プログラマーとなり、気がつくと夜明けという生活が続きました。変数エラーを出しては、原因がわからずもがいた日の連続でした。プログラムを何度も書きなおしSAVEし、RUNさせる。REMで文章を書けばカタカナしか使えないが、これはワープロと同じだとも思いました。デジタルデータとのはじめての出会いでした。 受験者1500人もの成績処理を行う成績処理と出力プログラムを完成させ、1年目は人力と機械の平行処理を行い、成功させました。もちろん、成績の入力はテンキーから入力させましたが、2年目は当時500万円した三菱のOCRを購入していただき、解答用紙そのものもOCR読み込みさせるシステムを完成させました。それによって、私たちはテンキー入力から開放されました。 今ではどこでもやっていることでしようが、今から20年も前(1980年)にすでに日常的に使っていたということ事態、先進的すぎたのかもしれません。 このような成績処理という新しいひとつのシステムをつくるには、現場の仕事の流れやデータの使い方を充分に理解する必要があります。また、システムを使う人のことやデータを使う人のこと、そしてその人たちにマッチした形をその場その時で考えながら構築し、導入していく必要があります。コンピュータ・システムの構築でもっとも重要なところは、システムのプログラミングではなく、その導入方法にあるということをここで学びました。 当時、コンピュータを「非人間的な怪物」と考えている人の多い保守的な教育現場において、データ出力を使う教師が今までと違和感のない形で、そしてデータ処理や利用の有効性を実際に理解してもらいながら、システムを構築していった私たちの方法は、私たち自身が教師であったというところに、重要な点があったと思います。 1982年に教師をやめて、博物館に勤めましたが、ここにはコンピュータは展示用に導入されたFM8というマイコンと呼ばれるものしかありませんでした。IBM5110と比べると子どもだましの玩具みたいなもので、少しはBASICで遊んだものの、ほとんどさわらなかったと思います。あとになって、恐竜Q&Aを私の方で画像と文章を提供して、同僚の石橋さんにプログラムをつくってもらったりして制作しました。そのころから、私自身ではほとんどプログラムには手をつけなくなりました。 IBM JXなどと言うと、その筋の方は微笑まれるかもしれませんが、IBM5550までは個人では手が出ず、IBM PCやATの日本語バージョンを望んでいた私にとっては、当時の森進一の宣伝とCPUのレベルは気に食わなかったものの、IBM JXは念願のパーソナル・コンビュータに見えたのでした。 CPUは8808とそのころでもすでに一時代古いものをつんでいたものの,256KB(後に384KBに追加)、その当時ですでに3.5インチFDドライブを備え、カートリッジを入れかえることにより日本語DOS版コンピュータからIBM PCjrに変身するというしろものでした。購入したのは、おそらく1985年で、価格は本体とプリンター、ソフトをそろえて約100万円しました。静岡市付近では、私を含めて2人しか購入しなかったそうです。 私の書く論文はどういうわけかいつも長くて、原稿の書きなおしや清書にはそのころ大変な時間を費やしていました。そのため、デジタルで文章を管理するいわゆるワープロが自由に使えることを待っていたところに、日本語ワープロや英文ワープロなども一応使え、Multiplanなどの表計算ソフトも使えるIBM JXの登場となったのでした。 IBM JX4は、その直後にでたNECのPC9801シリーズに比べ、CPUも古く、利用できるソフトも限られていました。しかし、JXは私の仕事を充分にサポートしてくれましたし、私の期待に十分こたえてくれました。私は、JXでいくつかの論文を完成させました。とくに、1988年にはスペルチェックもない英文ワープロを駆使して博士論文を完成することができました。また、データ処理にしても私の仕事や奥さんの家計簿処理に充分な仕事をしてくれました。 とくに、奥さんはJXによって、それからの人生の大きな展開となるコンピュータとのつき合いがはじまりました。 1990年にJXはPC9801VXに席を譲り、1993年にはモンゴルの友人に譲りました。今でも、JXはウランバートルの彼の事務所に置かれています。 ワープロを清書機と勘違いしている人が今でもいます。たしかに、ワープロはプリンターで印刷すれば、清書したものと同じですが、大事なことはそれがデジタルデータとなることです。すなわち、一度ワープロ入力すれば、その文章は保存され、修正や変更が可能になり、さらに他の用途にも転用できるところにあります。 私の職場で職員がワープロを使いだしたころ、文書データの入ったフロッピーを何度も使うため、過去のデータに上書きして大切なデジタル・データをせっせと消していたということがありました。今でも、デジタル・データの活用に関しては、その理解不足から同じようなことが繰り替えされています。 よくコンピュータを買うとすぐにその能力を超えたより安い製品が出るので、後悔するから買わない、と言う人がいます。断言します。コンピュータはいつ買っても後悔するものです。私など何度後悔したことか・・・。そのようなことを言う人は、おそらく一生コンピュータを買うことができないことになります。 私もJXを買った後に、NECのPC9801シリーズが出て、松や一太郎など優秀な日本語ワープロも登場して後悔しました。最近では、266MHzのCPU搭載のVAIO PCG-C1XEを買って、その一ヶ月後に400MHz搭載の新しい機種がでて、とても悔しい思いをしました。 1980年代末から1990年代のはじめにかけては、NEC PC9801 シリーズが日本のパソコンのシェアを独占し、一太郎Ver3は国民的ワープロソフトとなりました。 職場ではすでにPC9801シリーズを使っていたこともあり、個人でもCPUが i80286に上がったところで、PC9801VXを購入しました。私は5インチFDを持ち歩くことで、自宅でも仕事場でも、他の大学に行ってもどこでも仕事ができました。 私は、とくに文章の作成やすでに書いた文章のデジタル化をこの機械を使って行い、いくつかの本の編集をしました。ホームページにあげている文章の中にも、このときにデジタル化したものが多くあります。その意味で、文章などのデジタル化は、私のアーカイブスのはじまりでした。 NEC9801シリーズは、基本的に日本国内標準でしかなく、世界的な標準であるIBM PCとはまったくちがうものでした。そのため、外国でつかわれているソフトがそのまま使えないことやデータの互換性も限られていました。 わが家にIBM JXがなくなったため、奥さんのマシンがなくなりました。そのために、キャンパスノートといって大学で安売りしていたPC9801Nを買いました。ハードデイスクもなく、フロッピーでソフトを立ち上げるというもので、付属ソフトとしてアシスト・カルクやアシスト・ワードなどがついていました。奥さんは、Multiplanに慣れていたためアシスト・カルクは使いにくく、結局ほとんど使いませんでした。 1995年ころになると、世の中にはパソコン通信やマルチメディアが騒がしくなり、ウインドウズやインターネットなども聞こえるようになりました。そのころには、私もPC9801VXの限界も見えてきて、マルチメディア対応のコンピュータへの転換を肌で感じはじめていました。また、DOS-Vにより日本語のDOSで動くIBM PC対応もはかられ、以前から望んでいた世界対応のコンピュータ・ソフトを利用できる機会の到来を感じました。 部屋の整理の都合で、奥さんのステレオを処分してしまったこともあり、マルチメディアの呼び声に惑わされ、1995年の春にIBM Aptiva 720を購入しました。 Aptiva 720はウインドウズ3.1が載っていて、それまでのMS-DOSに慣れていた私にとっては、最初マウスやウインドウズを使うのに戸惑いました。 このコンピュータは、私よりも家にいつもいる奥さんが使う機会がだんだんと多くなりました。奥さんは、そのうちパソコン通信をはじめ、ネットワークの道具としてIBM Aptiva 720を使いはじめました。最初はパソコン通信にはあまり興味はなかった私ですが、奥さんにすすめられNiftyとPeopleに入会して、メールを少し使いだしました。 Aptiva 720は、ソフトもついた、いわゆるオールイン・ワン・パソコンで、使っているうちにだんだんと使いにくいマシンに感じてきました。結局は、ハードデイスの故障や増設、メモリーの増設、初期化、ウインドウズのバージョンアップなどあり、すでに別のマシンに変身してしまいました。わが家ではつい最近まで使われていました。 私は購入した最初の3が月ほど使いましたが、それ以後は奥さんが使いまわし、彼女がGatewayに乗り換えると、私に払い下げられ、私がDellに乗り換えると、1999年1月からは娘にさらに払い下げられました。娘が新しいマシンを買ったことで、長男が使っていましたが、より性能のよい中古のマシンをもらったので、今では廊下に置かれています。 Aptiva 720は、それを購入した年の夏ごろには、気がつくとすでに奥さん専用のマシンになっていました。そのため、私は職場にも持っていけるサブノート型のThinkPad 530CSを購入しました。ThinkPad 530CSは、使いやすく、どこにでも持っていきました。メールも内部モデム(M-waveというソフトのため問題がありましたが)で、メールもWebもできました。 1997年春に、職場でDELLのノートを購入し私が使用できたこともあり、ThinkPad 530CSを職場で使わなくてもよくなりました。そのため、ThinkPad 530CSのOSをウインドウズ3.1からウインドウズ95にあげようとしました。ThinkPad 530CSはそれ用のBIOSがないとウインドウズ95にはあがりませんでした。 なんとかウインドウズ95にしましたが、50MHzのCPUと500Mのハードデイスクではすでに大型のOSやソフトを十分に走らすことはできませんでした。それでも、モバイルとしては使っていましたが、1998年ごろにモニターがつかなくなり、今はほとんどただの箱として私の机の下に置き去りになっています。 その後、ある雑誌でThinkPad 530CSはモニターの開閉部の電源ケーブルが接触不良になる欠陥があると書いてあるのを見ました。私のThinkPad 530CSも結局欠陥商品でしたが、私にとっては十分に役割をはたしてくれた、だいじな名機のひとつと言えます。 インターネットではじめてWebを見たのは、1995年の秋でした。そのころ、Peopleでインターネット有料サービスがあり、それを利用して奥さんがはじめていて、私にも見ることをすすめてくれました。Webを見て、とくに博物館のサイトを見たときに、展示パネルのひとつひとつにまでアクセスできたのには感動しました。そのとき、「これは博物館で使える!」と確信しました。 私は、その年の12月に私のつとめる博物館でもホームページをつくろうと、活動を開始しました。博物館の中のいろいろな人にWebを見てもらいそれを理解してもらうために、ThinkPad 530CSでWebを見せてまわりました。その効果があったのか、博物館でもホームページをつくることが許され、1996年の2月から私と石橋さんでホームページの制作にとりかかりました。 そのころ、博物館にはウインドウズのマシンがなく、私は私のThinkPad 530CSを使い、石橋さんは機械生物のメンテ用のMacintoshのPerformaで、ホームページをHTMLのタグ書きでつくりはじめました。 コンピュータを計算機と思っている人はもういないと思いますが、コンピュータは計算もできる通信・情報整理機器です。それは、資料を調べる図書館であり、自分の意見やデザインを表わすペンや紙であり、電話やファックスよりも気楽に使える情報交換の道具です。その上、コンピュータはテープ・レコーダやファイリング・ボックスよりも膨大なデータを蓄積できて簡単に検索できる記録・検索装置です。 今やコンピューターをもっていて、通信機器として使わない人は車を買ってドライブに行かないのと同じことです。Webだけでなく、電子メールによる情報交換も多くの人と気楽にできます。 このようなことを1995年に書きましたが、この5年で多くの人がWebや電子メールを使えるようになりました。かつてコンピュータを電話と比較しましたが、今や携帯電話は電話にあらず、すでにコンピュータ端末になっています。 この文章は1995年ころにぼちぼちと書いていたものです。その後、2000年ころにとりあえずまとめましたが、愛機の写真を載せようと、オープンを待っていました。しかし、古いマシンは写真もなく、いつまでたってもだせないので、このあたりでページにしました。〔2001/06/10〕 現在(2001年6月)、うちには私用にDell(Dimension V400)、奥さんのGateway 2000 G6 300、娘のGateway Select 650、 その他に、SONY VAIO PCG-C1、Macintosh Performa、とどこかの会社からもらって改造したNECのマシンがあり、廊下にはIBM Aptivaと部品をとられたNECのマシンが無造作におかれています(2001年6月)。 Gatewayの撤退以降、奥さんいわく、「テクニックを使わなくては動かないマシンはコンピュータにあらず」ということで、2002年3月にEPSON Endeavor Pro-1000を(購入し、Windows2000でメインマシンで使っています。娘が引っ越したので、息子たちのマシンがなくなり、安かったこともあり、iiyama FC1GCB(Windows Xp)を購入しました。私はあいかわらず、Dell Dimension V400(Windows 98)です。(2002年7月) 2003年5月には、画像やWebページの作成に関してDimension V400(Windows 98)も限界と感じ、やはりDellのDimension 4600C(Windows XP)を6月に購入しました。4600Cは液晶モニターにスリムボディーなので、デスクが広く使え、またCPUはPentiam 4 2.4GHzとV400の6倍で動きはとても快適です。また、Windows 98ではすぐにフリーズを起こしていましたが、XPはフリーズがほとんどなく、今のところなんの心配もなく使えます。 以前のように、内臓式のタワーケースはすでに必要なく、バックアップ用にはUSB2外付け120GBのハードディスクをつけ、普段職場とのデータ移動はコンパクト・フラッシュまたはCD-Rを利用しています。 V400は奥さんのサブ機として98のままで置き場所を移動して、今のところあまり使われていません。 もらったり、パーツとりで家の中にいくつもあったコンピュータも秋におそまきながら、有料大型ゴミとして整理しました。現在デスクトップはEndeavor、Gateway、iiyamaがそれぞれ1台と、Dellが2台の全部で5台となっています。(2003年12月) だいぶ長い間パソコンもこのページも更新しなかったが、この間の2004年5月にメモリーを1GBにしたDimension 4600C(Windows XP)を購入し、使っていた同型を子供用にした。また、2004年11月にDell Inspiron700(Windows XP)というノートを買いmobileとして使用していた。 2005年に転居して、私の勉強部屋はなくなったが、寝室の片隅にデスクを置いて仕事している。妻は、私の実家の父や母の世話などで不在になり、自分がいつもいる私の実家のコンピュータ環境をむしろ整えてきた。すでに時代はVistaからWindows 7へと移り、子供たちのマシンが一新した。この間、モニターをFlexScan S2231W-EGYにした。 Windows 7、ハードディスクは1TB、インテルCore i プロセッサーシリーズ、と時代は急展開し、次のマシン環境をに移行する時期になった。しかし、マシンやOSを変えると、使い慣れない新しいソフトへの変換と職場で使っているたソフトとのデータ互換が問題となる。また、新しいソフトの購入も含めた予算の問題もあり、移行には迷いがあった。 しかし、いつかは移行しなければならないことから、2010年12月に移行を決断した。マシンはEpsonのEndeavor MR6700 にして、ソフトなども整え、デスクまわりも整理した。Endeavor MR6700の仕様は、プロセッサーはインテルCore i7-870、メモリーは8GB、ハードディスクは500GBと1TBを内蔵して、バックアップ用に1TBを外付けした。(2010年12月) |
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