ジャワ島縦断バスツァー

ぼしゅうちゅう 81号1989年10月+82号1990年2月 柴 正博


ジャカルタ空港にて

 ジャカルタの空港で入国審査を終えて、荷物を持ってピロティーに出た。このピロティーの入口には入国してくる人たちを出迎えるために通路の周りに人だかりができている。冷房のきいた室内になじんでいた体に、蒸し暑い空気と人の熱気が押し寄せてきた。人だかり中に、インドに留学中の柴崎直明氏の顔を発見して、ほっとした気分になった。彼はインド人よろしく黒く焼けた顔に口髭をたてて手を上げて、右手で我々の進路を指してくれた。彼の指さす方に目をやると彼の親父さん、柴崎達雄先生の姿が見えた。熊井さんもいた。

 柴崎さんのところに行って挨拶をすると、柴崎さんはいつもの笑みを浮かべ、アジスさんとウディンさんを紹介してくれた。アジスさんは第四紀研究所の古生物の研究者で我々を出迎えに来てくれた。ウディンさんは我々ツァーのガイドさんで日本語が話せる。

 このツァーでは、3つの大きなハプニング(ミッシング)があったが、そのひとつがここで起きた。ツァーの参加者である倉川さんの荷物がいくら待っても出て来ない。倉川さんは問い合わせなどで、添乗員の立澤さんやウディンさんと走り回ったが、どうにもならず、数日後にもう一度問い合わせることにした。さて、ようやくツァーがはじまった。

 このツァーは、ジャワ島縦断バスツァーという名前で、文字どうりバスでジャワ島を西から東へ縦断しようというものだ。コースは、ジャカルタからバンドン、そこからジョクジャカルタを経由してソロ(スラカルタ)に行くもので、沿線のところどころで地質の見学をしながらジャワ島の自然と人間生活に接しようというものだ。

 見所としては、東西にのびたジャワ島の中央に列をなして並ぶ3,000m級の活火山群の雄姿を見学することと、ジャワ原人として有名なピテカントロプス化石の産地を見学することがある。このツァーの企画から巡検のお世話をしてくださったのは柴崎さんが所長をつとめるインドネシア第四紀研究所のスタッフ(インドネシア−日本協同研究チーム)のみなさんで、バンドンからはいっしょに行動することになる。

 40人乗りのドイツ製のバスに、ツァーの参加者19名と添乗員の立澤さん、ガイドのウディンさん、案内役の熊井さんとアジスさんが乗り込み、人と車でごったがえしたジャカルタ市内をぬけて南下し、植物園のあるボゴールに向かった。ボゴールまでは、ゆっくりとした登り勾配はあるものの平坦な段丘上に最近作られた有料高速道路を通って行った。ジャワ島では今、高速道路の建設が行われていて、西部ジャワではよく高速道路の建設現場とであったが、高速道路を使ったのはこれが最初で最後だった。


ボゴール植物園

 ボゴールはジャカルタから南に60kmのところにあり、かってはパンジャジャラン王国の中心地として栄え、オランダ植民地時代に東インド会社の総督邸はじめ多くの別荘があった町で、今でもジャカルタ近郊の高級な避暑地となっているらしい。

 ボゴール植物園の前でバスが止まると、アクアと呼ばれる水やジュース、おみやげの品々を持った売子がバスを取り囲んだ。売子のほとんどが男の子供や若者で、バスから降りると我々を取り囲んで押売を始めた。植物園に入ればなんとかなるだろうと思ったが、なんと植物園の中にも売子が沢山いて我々を攻撃してきた。ゆっくりと植物園を散策しようと考えていた我々にとって、売子との対決が我々の目的を達成するための必要条件となり、なんとも忙しい植物園見学となった。

ポゴール植物園   ポゴール植物園

 ボゴール植物園は15,000種もの植物がある東南アジア最大といわれる植物園で、1時間半ほどしか時間がなかったためにその一部しか見ることができなかったが、楽しい時を過ごした。植物園の案内は、戦争中からここにつとめているという古老のガイドさんに案内してもらった。日本が占領していた時代にここで研究していたらしい日本人の名前や植物の和名などもまじえての英語での案内はとても興味をそそられ、ひとつひとつの植物についてただただ感心していた。しかし、次々に植物を紹介してくれるためにひとつひとつの名前を覚えきれなかった。

 ボゴール植物園を出て、売子の総攻撃の中をやっとのことでしのいでバスまでたどりつき、早々にボゴールをあとにして一路バンドンに向かった。バンドンまでの途中、ボゴールから1時間ほどのところに峠があり、その峠のレストランで遅い昼食をとることになった。

 この峠は火山の中腹にあり、お茶の農園が広がっている。あいにくの天気で見晴らしが悪く、食事をしているとスコールのような雨があった。海抜1,000m以上のこの峠ではちょうど日本の八丈島付近の植物分布になるという。食事はサテとよばれる焼鳥を中心にした西ジャワ料理とビールで、日本からの長かった旅の緊張感がここで解放され、空腹も満たされて、参加者一同、昼間から盛り上がった。

 食事がすんで、2番目のハプニングが発覚した。参加者のひとり、逢坂さんが見あたらないのである。おそらくボゴールでバスに積み忘れたらしい。早々に熊井さんとアジスさんたちがバスと併走してきたジープでボゴールに戻り、捜索することになった。ボゴールを出てからすでに2時間が経っていた。


バンドン

 バスは計画通りバンドンに向かって出発した。火山の山麓を下り、新第三系の石灰岩地帯に入って、東に向いバンドンに到着したのは午後5時近かった。バンドンは海抜700mの内陸盆地にあり、西ジャワ州の州都でもある。気候は夏の軽井沢のようなにすごしやすく、大学や研究所なども多い学園都市である。

 我々の泊まったグランド・ホテル・プレンガは古い歴史をもつホテルで、部屋も大変広く、私の家族で借りている3DKの部屋と同じくらいの広さがあった。逢坂さんは午後7時ごろホテルに着いた。彼は、ボゴールで売子の攻撃と戦っているうちにバスが出ていくのが見えたので、追いかけたが間に合わず、2時間待っていたがバスが戻ってこないので、長距離バスに乗ってバンドンまで一人旅をしてきたそうである。一人旅では、地元の人たちの親切や女学生たちとの交流など、貴重な経験をしたらしい。

 次の日、8月22日は、バンドンの地質博物館と第四紀研究所を見学した。バンドンの地質博物館は、1929年にバンドンで開かれた太平洋学術会議の時に造られたもので、インドネシアの地質調査関係の合同庁舎の中にあり、標本陳列が主体で1階建て2室構成からなっていた。日本統治時代には、地質調査研究の中心となったところで、池辺展生氏が館長を務めていた。展示は、ステゴドン象や人類化石を中心とした古生物関係の展示室と鉱物を中心とした鉱床・一般地質関係の展示室に分かれていて、館長のスワルノさんに案内していただいた。

 展示物のそれぞれについては大変興味をそそられ、また工夫をこらした新しい展示物やおみやげもいくつかあったが、全体に普通の建物に陳列ケースを並べたという印象が強い。特に、不必要に天井が高く、とても見にくい展示ケースが多くあり、また窓がそのままで照明や展示環境についての配慮が欠けていた。柴崎さんの話では、現在この博物館の展示を日本政府の援助で改修する計画を推進している最中であり、来年にはマスタープランが検討されるとのことだった。

地質博物館のステゴドン   第四紀研究所

 第四紀研究所は、日本海外協力事業団(JICA)の援助で1974年から続けられていたインドネシア−日本協同の第四紀環境地質研究のセンターとして1984年に建てられたそうで、平屋で落ち着いた感じの建物だった。研究所では、各研究者の研究室を案内していただき、研究内容や方法、今までの経緯などについて紹介や議論があった。研究室はフィッショントラック、地質データのデータベース化、C14年代測定、SEM、脊椎動物、堆積物、微古生物などに分かれ、それぞれに若い研究者が配置されていた。

 その中には現在日本から参加している熊井さん、真野さん、木村さん、打木さんの顔もあった。脊椎動物の研究室ではアジスさんから金庫にしまってあるピテカントロプスのVと[、さらに最近発見された歯のついた上下の顎骨を見せていただいた。昼には、柴崎さんの奥さんや研究所の女性スタッフの方々が用意された昼食をいただき、ツアー参加者や研究所のスタッフの英語での自己紹介があり、楽しい昼食会を終えてホテルに戻った。

 ホテルに戻り、初めての自由時間が与えられ、さっそく4〜5人で町に出ることにした。ガイドのウディンさんも幸いついて来てくれたので、気が楽になった。なぜならば、ボゴールでの売子による攻撃のショックからまだ回復していなかったので、外出恐怖症ぎみだったからである。本屋やデパート(というには小さなデパート)をのぞいた後、スーパーマーケットに行った。スーパーマーケットは値段も表示されているし、品物もそろっていて安い。それと売子もよってこないし、いかにも観光客という姿でも他の人に注目されないので、落ち着いて買物ができる。品物の種類や質、値段の勉強や今晩のビールやつまみ、明日の水などを買い込んだ。

 インドネシアのお金の単位はルピーで、1円が約10ルピーなので換算しやすい。物価はだいたい日本の10分の1と考えればよく、日本人にとっては1円が10円の価値になるのだから大金持ちになった気分になる。しかし、インドネシアの人にとって10ルピーは我々の1円の価値ではなく、10円の価値を持っているので、日本人はまぎれもなく大金持ちなのである。たとえば、食事は普通1000ルピーもあれば満腹になれる。我々はビールや贅沢な品物、店を選ぶので時に5000ルピーや1万ルピー使うこともあるが、日本でも贅沢をすれば食事や飲み代に5000円や1万円はかかってしまう。1000ルピーは我々にとっては100円であるが、ルピーを使っている人たちにとっては、我々の1000円と同じ価値なのである。


ジョグジャカルタへ

 翌23日は、ホテルを朝8時に出発し、ジュグジカルタまでの約500kmをバスで移動する。第四紀研究所のメンバーが5台のジープに分乗してバスと併走する。バスには柴崎さん、熊井さん、木村さん、それと石炭資源開発でインドネシアに来ているJICAの菅原さんが乗車し、地質などのガイドをしてくださった。

 ジャワ島の地質は、主に東西方向の構造を持つ新第三系の上に、東西方向の脊梁をつくる形で島の中央に第四紀火山が配列している。新第三系はマールなどからなる石灰岩層や泥岩層が主体で、中新統から鮮新統の海成層からなる。南部の一部にはヌンムリテスをともなう始新統や白亜系?とされる地層も露出する。島の中央部は、ほぼ東西に配列した第四紀火山とその泥流堆積物(ラハール)によって新第三系はほとんど覆われるが、新第三系の上位に更新統の海成・非海成層が部分的に分布している。この更新統から脊椎動物の化石に混じって人類化石が産出する。 

インドネシアの田園風景 バンドン盆地をぬけて、火山の裾野を下り、ラハールの中を東へ向かった。車窓にはインドネシアの田園風景が通り過ぎて行く。火山の斜面に作られた見事な棚田、ヤシと水田と遠景の山の調和した風景、川で水浴びや洗濯をする人々、小学校で遊ぶ子供達、人でにぎわう町などどれも目を離せない風景に、カメラのシャッターをおし続け、時間の経つのも忘れた。

 それにしても水田が多い。水田では、年に2〜3回稲の収穫があるため、田植をしている隣で稲刈りをやっているという風景がどこでも見られる。はじめはとても奇妙でおもしろかったが、1年中同じ風景が展開しているのではと考えた時から、単調な風景にも思えてきた。

 昼ごろバスは、州境を越えて西部ジャワ州から中部ジャワに入った。中部ジャワに入ると地形も地質、田園風景までも変った。地質は今までの火山堆積物の分布地帯から新第三系の泥岩層分布地帯に変わり、水田からゴムやチークの植林プランテーションに変った。農家の形もジョグルと呼ばれる独特の屋根の家が多くなり、村や町の道や景色も西部ジャワとくらべてきれいに見える。

 ウディンさんや熊井さんの説明によれば、西部ジャワにはスンダ人が、中部ジャワより東にはジャワ人が住んでいて、民族が違い言葉や生活も異なっているという。たとえば西部ジャワの人はせっかちで辛いものが好きなのに対して、中部ジャワの人はのんびりしていて甘いものが好き。たしかに、中部ジャワでは売子の攻撃に悩まされることはなかったし、町ものんびりしていて、食べ物の味が甘ったるさえなければとても過ごしやすい所だと思った。

 昼食はワンゴンという町でとったが、トイレの隣にシャワー室のような礼拝所があり、2人の人がお祈りをしていた。インドネシアの人の8割が回教徒ということもあって、食堂で礼拝所を見かけることがしばしばあった。

 川の水は、火山地帯を通過してくることや生活水で誰もが下水や洗濯、水浴びなどで共有し、上水道が完備していないため、水は汚染されていて飲み水としては適していない。日本の上水道といっても整備はされているものの、琵琶湖の水を大阪で飲んでいるような現状ではそう変わりはないのかも知れないが、日本では一応まだ飲める。したがって、水を飲みたければアクアと呼ばれる水を買って飲むしかない。細かなことを言えば、食器を洗う水や氷なども汚染されていることはあるので、食べ物や飲物に注意しなければ、下痢や食中毒から免れられない。

 このツアーの参加者のほとんどがなんらかの腹部の異常を訴えたが、その原因の一つに食べ物や飲物の汚染が原因しているものもあると思う。しかし、ほとんどは旅の疲れと慣れない生活からの精神的疲労、それに加えて食べ過ぎが大きな原因と思われる。食べ物の汚染に対して過敏な人ほど、どういうわけかよく食べて食べ過ぎる傾向にあった。私は、元々お腹には自信がないので、食べ過ぎと飲み過ぎだけに注意を払っていた。露店の変な店で食べなければ、一応地元の人と同じものを食べていればおかしなことにはならないと考えたからである。おかげで、旅行中無事に過ごすことができた。

スムビイン山 昼食後、バスは北東に向い、火山地帯に入った。3000m級の2つの火山の間の峠を越えて行こうというもので、峠からは東西に並ぶ4つの火山体のパノラマを堪能できるというのである。日本で言えば、富士山が4つ同時に視野に入ってくることになる。しかし、天気は段々と悪くなり、海抜1500m付近の峠にさしかかると雨と霧で視界の確保も危なくなってしまった。

 ジャワ島の気候は乾期と雨期に分かれていて、今は5〜10月頃までは乾期で雨が降ることはめったにないそうなのだが、今年は異常気象らしく乾期にしばしば雨が降っていたらしい。雨期にはインド洋から湿った空気が脊梁の山地にあたり雨を降らせ、乾期にはオーストラリアから乾燥した空気が入ってくるので、全体に乾燥気候となるのが普通らしい。山腹の海抜1000m付近からお茶畑が広がっていたが、峠にかかるころからタバコ畑に変わり、農家の人たちが雨のため干していたタバコを急いでたたんだり、軽トラに積んで運んだりと忙しく働いていた。

 峠を越えると雨が止み、雲間から東の火山、スムビイン山の雄姿が少し見えたが、西の火山、センドロ山はとうとう姿を見せてくれなかった。峠を下りジョグジャカルタに向かったが、日はすでに傾き夕方になっていた。

 午後7時頃にジョグジャカルタの町に入った。食事をしてホテルに着いたのが9時。なんと13時間のバスの旅であったが、変化に富んだエキサイティングな1日だった。私は心地よい疲れもあったことと、ホテルが町から離れていることからその日はすぐにやすんだが、参加者の何人かは町へ出かけて行った。その時、私は私には若さがなくなったのかなと感じた。


プランパナンとボロブドール

 ジョグジャカルタは、かってジャワ島の文化の中心地として栄え、7〜9世紀には仏教文化とそれに続くヒンズー教文化の壮大で華麗な文化遺産があり、これらが現在ではジャワ島最大の観光地となっている。

 プランパナンは、ジョグジャカルタの東17kmにある8世紀頃に建造された大小240ものヒンズー教の寺院群で、我々はその代表とされるチャンディ・ロロ・ジョグランを見学した。高さ約50mの破壊の神を祭るシバ堂を中心にビシュヌ堂、ブラフマー堂など8つの祠堂が立ち並んでいるが、今世紀のはじめの地震ですべて崩れ、現在いくつかが再建されていた。現在でも作業が続いていて、彫刻された安山岩の石を積んで復元していく作業はまるで立体ジグソウパズルのようだと思った。

プランパナン   ボロブドール遺跡

 仏教寺院では世界最古で最大といわれるボロブドール遺跡は、8世紀頃建造されたが、メラピー火山のラハール(泥流)によって埋没し、英国のスタンフォード・ラッフル卿の命を受けたオランダ人技師コルネリウスによって1814年に発見された。発掘は約20年かかり、その全容が現れたのは1835年であったという。

 ボロブドール遺跡の構造は、縦横113mの正方形の基壇の上に、高さ35mにも達する9層の回廊を積み重ねた巨大なピラミッド型の建造物である。回廊を段々と登りつめていくと、欲望の界から有形の界、そして、頂部のテラスに出るとそこは欲望の世界から脱した悟りの無形の界にたどりつくという。なるほど、無形の界からの眺めはよく、メラピー火山こそ見えなかったが、眼下に展開する風景はすがすがしさを感じさせてくれた。

 ボルブドール遺跡のすぐ西には、新第三系からなる山が連なっていて、その形がブッダが寝ている姿に似ているという。この新第三系についてインドネシア−日本チームの人達に質問したら、この山地は中新統のグリーンタフで構成されているという答が返ってきた。

 ボルブドールは大変有名な観光地なので、売子も沢山いて、すぐに我々の周りにも群がったが、ボコールほどの迫力はなかった。遺跡の階段まではまとわりついてうるさかったが、そこから上には入ってこないというようにルールをきちんと守っていた。ボルブドール遺跡とその周囲は現在整備されていて、博物館や道路、橋の工事などが行われていた。これらも、JICAの援助で行われているらしい。

 バスはボルブドールを後にして、メラピー火山の山腹へと入っていった。山道はだんだんと狭くなり、そして曲がりくねり、バスと車がすれちがいできないところも多かった。沿道には距離をおいて村があり、そこには必ず小さな小学校があって、我々の観光バスが通ると校庭にいる子供達が走って寄ってきて手をふってくれた。村と村をつなぐ定期バスはあるものの、観光バスがこんな山道を通ることがないのだろう、大人も子供も奇妙な顔か歓喜の目で我々を迎えてくれた。子供達の目がどれもとても澄んでいたのが印象的だった。

 山に入ると棚田からトウガラシの畑に変わり、そしてそれもなくなった。長いつづら折れの道が続いて、峠にさしかかると、メラピー火山は深い谷の向こうに雄姿を現した。山頂は雲のために見えなかったが、山腹とそこを深く切り込んだ沢を真近に見た。メラピーもほかの火山同様に安山岩の火山で、玄武岩からなる富士山とよく似た成層火山の形態であるが、山腹や山頂部が富士山よりも急傾斜になっている。

 峠にはところどころラハールの露頭が見られるが、バスは停止せずにどんどん進んでいく。ラハールとは、泥流堆積物を意味する言葉であるが、むしろ火山噴出による溶岩以外の堆積物全般をしめしていると考えた方がいいようである。したがって、凝灰岩や集塊岩などもラハールと呼んでいる。

 峠を下って、バスはソロに向かった。ソロは、かってマタラム王朝として栄えた町で、現在スラカルタと呼ばれている。ソロ川が町の中央を流れ、我々が今まで訪れた町にくらべて、清楚で落ち着いたたたずまいのする町である。我々のホテルは、宮殿と隣りにあるクスマ・サヒド・プリンスで、かって王族の住居だったところをホテルに改造したため、格調が高く落ち着いた雰囲気がしている。我々はホテルで一服した後、午後6時にインドネシア−日本チームのホテルへ行って、まとめの会に参加し、夕食というスケジュールだった。

 柴崎さんたちのインドネシア−日本チームは、ほぼ全員のメンバーが我々と同行してくれましたが、彼らにはこれから2〜3週間かかって行われるソロの東側にある地域の地質調査という別の仕事があった。彼らの1日の調査スケジュ−ルは、朝6時にホテルを出発して、途中で朝食をとり、フィールドに入り、午後2時前に調査を終了し、帰途昼食をとり、午後6時からホテルでまとめの会を行うというものである。

 インドネシアは赤道直下にあるため、暑く、また日影がない。さらにソロ付近は乾燥しているために、特に暑い午後2〜3時ごろ調査をしていると体が長続きしない。ちょうど、牧之原で卒業研究をしている前田くんも同じようなスケジュールで調査をしているという。調査隊は小さなホテルをまるごと借り切っている。まとめの会は、そのホテルの廊下に机を並べ、机の上には電気スタンドを置いて、頭を突き合わせ、各班の報告や討論を行いる。まるで、団研のまとめの会のインドネシア版と言ったところで、薄ぐらい廊下でスタンドの光に照らされて、机を取り囲みお互いに議論する姿に感動をおぼえた。


サンギラン

 サンギランは、ソロの北、車で15分ほどの所にあり、ピテカントロプスや脊椎動物の化石が多く発見されている地域である。この地域の更新統は全体にドーム状の構造をして、ドームの中央に古い地層が露出し、外側に新しい地層が分布しているために古い地層から新しい地層まで見ることがでる。

 古い地層からの層序は、泥層やマールからなるカリーベン累層、主に泥層からなるプッチャンガン累層、砂層からなるカブー累層、火山砕屑岩などからなるノトポロ累層となっていて、下位から上位にほぼ海成、汽水、淡水というように堆積環境が変化しているようである。人類化石の産出層準として重要なのは、カブー累層の下底にあるグレンツバンク帯と呼ばれるビーチロック様の石灰岩層の付近で、プッチャンガン累層上部とカブー累層下部から化石が発見されている。

 25日にサンギラン地区に入り、まず我々が最初に見学した露頭は、ドーム構造の外輪を形成するノトポロ累層の下底のラハールであった。このラハールは、安山岩の角礫が多く含まれる凝灰岩層で、淘汰がきわめて悪いというほどでもない。ノトポロ累層にはラハールが2枚あるが、含まれる安山岩に普通輝石が多いか、角閃石が多いかで区別されるらしい。しかし、最近の調査では北部と南部でその層準を検討する必要があるらしい。

 このラハールの下にはカブー層の泥層と凝灰質な砂層があり、これとラハールとは不整合との説明があった。露頭ではいくらか下位の泥層を削っているかなとも思えるが、地域全体からそのような結論を出したらしいので、一応納得した。ただ、このラハールの上に下位と同様な泥層があり、さらにラハールが累重するという露頭があり、ここでは少なくとも環境としてはあまり変わっていないと思えた。

 今日まで、露頭をバスの中から見るだけで、ハンマーで露頭をたたくことができなかった反動か、気が付いたらそこらじゅう魚沼ハンマーでひっかきまわしていた。ラハールの下位の凝灰質の砂層には斜交葉理を発見し、そのスケッチや含まれる礫のファブリックなどに熱中してしまった。

 次の地点は、今年の5月に発見されたピテカントロプスの下顎骨の発見場所である。ここは、道が狭くバスが入れないので、ジープで行くことになった。尾根を通る道からはサンギラン地区の北側が見渡せ、なだらかな丘が続き、乾燥しているせいか尾根や斜面に緑が少ない感じがする。このような風景ははじめて見る。日本で同じような所と言われれば、地形的には同じではないが、掛川や菊川の丘陵と似ている感じもする。

 化石の発見場所は、地滑りのところで、地面に多数の亀裂が入っていた。ちょうど尾根のところにグレンツバンク帯があるらしく、下位のプッチャンガン累層の泥層が地滑りを起こしている。この地滑り土塊の中にグレンツバンク帯の石灰岩の破片がとりこまれていて、その中から脊椎動物の歯や骨が発見されるという。

 実際に、化石の発見された場所に降りてみると、泥のズリの中や表面に少し黄色っぽい石灰岩の破片が散らばっている。不思議な産状だが、説明のどおり地滑りに石灰岩の破片が取り込まれていると解釈するしかないようだ。私は、くじびきと化石採集で大物にあたった経験がないので、期待をせずに化石はないかと一応探してみた。隣でさがしていた人が、何やら脊椎動物の歯をみつけたので、ついつい真剣に探してみたが、やはり私には縁がないのか、根気がないのか、発見できなかった。

 ジープでバスの所までもどり、バスに乗ってサンギランの博物館に行った。この博物館は、サンギランドームの中央付近にあって、カリーベン累層のラハールが構成する丘の上に立っていた。最近整備されたのか、小さいけれどきれいな建物で、新しい展示ケースやジオラマもあった。歯や骨などに混じって、貝化石なども並んでいたが、中には名前のラベルがないものもあった。博物館は丘の上にあるため風があり、建物の陰にはいるととても涼しく、少しの休みを楽しんだ。階段を降りると建物があり、その建物から顔を出して近所のおばさんや子供が化石を売っていたが、最後にはバスの入り口まで売りにきていた。

サンギランの博物館   サンギラン盆地の地層

 次はサンギランの南部にあるP[の発見場所を巡検した。丘の斜面を降りて、沢すじの民家の裏の砂層の崖が発見場所だった。ちょうど、カブー累層の中部の白色凝灰岩層の直下の砂層からP[は、ノジュールとして民家の子供によって発見された。砂層は中粒から細粒の斜交葉理の発達した砂からなり、シルトの薄層をはさんでいるが、こんな砂層なら日本にもありそうである。魚沼ハンマーでひっかいてもノジュールなど出てこないし、本当にここから化石が出てきたのか信じられない思いがした。

 隣の沢で何年か前に、柴崎さんたちがトレンチ発掘調査をやったらしく、その時に脊椎動物の骨などとともにテクタイトが発見されたそうで、転石でない層準のわかるテクタイトとしては重要で、世界でも同じ様な時期に知られていると言う。隣の沢を見にいったメンバーが脊椎動物の骨をひろってきた。帰りぎわに、メンバーと子供が記念撮影をしていた。その子がP[の発見者ということを後で聞いた。

 P[の発見場所を見学した後、バスに乗り込んでひと休みしていると、外でメンパーが何やらもめていて、バスもなかなか出発しない。その内、我々ツアーの歯医者さんまで呼ばれた。なにごとかと思っていたら、バスが出発して柴崎さんから説明があった。

 村の人が歯のついたヒトの下顎の骨を売りにきたので、それが本物かどうか検討していたというのである。これは結局にせ物と判定し、残念ながらピテカントロプスの新たな化石発見にはならなかった。このにせ物は巧みに偽造されたもので、上下の歯が何か不明の動物の下顎骨に埋め込まれていたらしい。幸い我々には、古脊椎動物の専門家とたまたまではあるが歯医者さんもいたので、これを偽造と判定できた。これが3番目のハプニング(ミッシング)である。ただこれは偽造者のミッシングではあるが。


トリニール

 ツアーとしての最後となった26日に、ようやくピテカントロプスの最初の発見場所として有名なトリニールを訪れることになった。トリニールはスラカルタから1時間ほどのところにある村で、東西に流れるソロ川が凸状に北に突き出して曲流する東の首もと付近がピテカントロプスの発見場所である。

 バスは細い村の道に入って行くと、ちょうど独立記念日の催しのためのゲートが幾重にもあって、バスの行く手を阻んでいた。村の人に頼んでゲートをバスの屋根にあたらないように挙げてもらいながら、なんとかトリニールの博物館までたどりついた。

 トリニールの博物館はもともと、ピテカントロプスを発見したデュボアやその後のセレンカ夫人、ケニスワルドたちが宿舎とした家のところに建てられたもので、博物館の裏庭に有名なトリニールストーンがあった。この化粧なおしされたトリニールストーンにはPe,ENE,175M,1891/93(1891から93年の間に、ここより東北東に175mのところでピテカントロプス エレクトスが発見された)と記されている。

トリニールストーン  ソロ川の河床の発掘地

 ここから川岸に降りて行くと、茶色く濁ったソロ川の対岸(東岸)に大きくえぐられた発掘地が見えた。この発掘地点は、サンギランの層序で言えばカブー層の最下部にあたり、石灰質で硬い礫層が露出しているところで、この礫岩層からは脊椎動物の化石が沢山産出し、それに混じってピテカントロプスが発見されたらしい。

 ここの地層は緩く南側に傾いていて、対岸の我々のいる場所から南には、この礫層の上位の主に凝灰質の砂層からなる地層が露出している。そのため、対岸の我々がハンマーでほじれるところには化石の産出はあまり期待できず、ここでは有名にピテカンシトロプスの第一発見場所を感慨をもって眺めることに専念するしかなかった。

 この場所でピテカントロプスの化石を発見したデュボアはオランダの軍医で、人類の系統について深い関心があった。彼はヒトの祖先の化石を求め、まずアフリカに軍医として赴任したが目的をとげられず、アジアにそれを求めて、オランダ領であったインドネシアに赴任した。最初はカリマンタン(ボルネオ)付近を捜したが、ジャワ島に移り、脊椎動物の化石産地の情報を集めながら東から順に捜して行ったらしい。そして、この地で大きな発見をすることができた。その後も10年間にわたり、彼の命をうけた2人のオランダ人が発掘を続け、多くの脊椎動物の化石を発見した。

 さらにその後、セレンカ夫人やケニスワルドによる大規模な発掘調査が行われ、ヒト以外の脊椎動物化石についての成果は得られたが、デュボアの発見以来ピテカントロプスの化石の発見はないという。トリニールの発掘跡を眺め、デュボアのヒトの化石を求めた執念とそれが生み出した幸運に感動するとともに、その後川の流れを変えるほどの発掘跡を残したセレンカ夫人の執念にも感服した。

 川岸の見学を終えて、段丘まで登り、博物館の横ですいかをご馳走になった。日本−インドネシアチームはさらに東の地域の調査に向かうため、我々と別れることから、そこでお別れ会を行った。そして、我々はソロへ戻り、翌日にソロの空港からジャカルタ経由でシンガポールに飛び、一泊してから成田に戻った。


最後に

 長いようで短かった1週間であった。アッと言う間に過ぎてしまったが、得たものはとても大きかった。我々のために、いろいろとお世話いただいた柴崎さんはじめ日本−インドネシアチームの方々、さらにはガイドのウディンさんやバス運転手さんに感謝いたします。また、ツアーの代表者としていろいろとご苦労された小森さんや羽鳥さんはじめ、ツアーのメンバーに楽しい旅ができたことを感謝いたします。

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最終更新日:2001/06/10

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