インド洋ひるね旅 |
ぼしゅうちゅう 31号1979年2月 柴 正博 |
北社夫の『ドクトルマンボ−航海記』を僕は読んだことがある。船のドクタ−ほど暇な仕事はないと思う。現に、この船のドクタ−も僕と同様にいつも上部甲板でひるねやバレ−ボ−ルをしているからである。やることがないと『つれづれなるままに』と文章を書きたくなる人種がいる。ひょっとして本にでもなれば、シンガポ−ルまでの旅費が浮くのではないかなどと妄想をもつ。 ダ−ウィンは『ビ−グル号航海記』を、クレプスは『ビチャ−ジ号』の航海記を残した。これらは自然科学の普及書として良く知られている。僕は、今回の旅の紀行文を、ビ−グル号やビチャ−ジ号、アルバトロス号の航海記のようなものにしたかった。しかし、いろいろな事情のため、目標にしたものには遠くおよばないものになってしまった。将来、機会をみて、大航海記を書いてみたいと僕は思っている。これが、僕のひとつの夢である。 ここに紹介するのは、今回の1ヶ月の旅の紀行文(全12章)のうち、インド洋航海に関する1部の第6章『インド洋ひるね旅』を中心に再編した文章である。 追記:とりあえずこの旅は、私の先生の星野さんとのふたり旅で、1978年12月末にシンガポールに行き、そこからソビエトの船に乗って、本来は3ヶ月のインド洋地球物理調査航海で、途中寄港するオーストラリアのパーツで、私たちは降りて大陸横断鉄道でシドニーまで行って帰国するという予定だった。しかし、ソビエトのアフガニスタン侵攻で、この船はオーストラリアに寄港することもできなくなり、私たちは1ヶ月後にシンガポールに戻った機会に下船して、日本に帰国した。 この船のGEOROGIY MAKSIMOV という名前は、北極海沿岸で活躍した地形学者野名前にちなんでつけられている。こん船の大きさは1200t ほどで、ちょうど望星丸(追記:初代望星丸で1140t)を思い出していただければ良いと思う。 この船は、北極海沿岸のアルハンゲルスク籍の船で、北の海を調査するためなのだろう、7隻のボ−トを備えているし、薄氷のはった海で航海できるように船の幅も広く、船底も卵型をしている。そのために、この船はうねりが少しでもあれば良く揺れる。その揺れ方は普通ではない。ちょうど揺りかごか揺り椅子のようにコロコロ揺れながら進む。揺れの速さがゆっくりしているので、船酔いはしないが、そのかわり寝るにはもってこいの周波数である。 北極海沿岸水路局に所属しているこの船は、北の海に氷のはる冬の間、モスクワの地球物理研究所がかりうけて南の海の調査に使っている。はるばるこの船は大西洋を横切り、パナマを越えて太平洋を横断してきたという。 この船での調査は、海底地形とスパ−カ−による音響地質断面の観測、全地磁気測定、海底地震計を海底に設置して地殻構造を測定する調査がおこなわれた。すなわち、いわゆる地球物理学的な海洋観測ばかりで、僕の最も興味のある海底堆積物を採取する採泥はおこなわない。なぜならば、ドレジャ−(採泥器)を積んでいないのである。実体顕微鏡まで持って乗船した僕にとって、このことは大きなショックであった。 なんとかならないかと船の中をいろいろと探してみたが、この船には深海の採泥ができるほどのウインチもワイヤ−もない。もっとも、ドレッジ−やワイヤ−があったとしても、この船に乗っている研究者が採泥というものにまったく興味をもっていないのだからどうしようもない。彼らは、実体そのものを見るという科学の基本的な方法には興味がなく、実体になんらかの働きかけをしたその反響としての数値デ−タにだけ興味をしめす人たちなのである。 しかし、この調査でおこなわれるだろう地球物理学的デ−タは、非常に重要な意味があると思われる。ところで少し心配なのは、この調査で得られたデ−タのすべてを総合的にまとめようとする人がこの船に乗っている研究者と呼ばれる15人の中にいったい何人いるのだろうかということである。このように僕が感じたのは、この船の研究者の各人は、ほとんどそれぞれの専門の仕事だけやればいいという態度をしめしているからである。 この船はとても暇な船である。各人は自分のノルマだけをしていればいい。ノルマといっても機械が順調であれば、何もすることがないといった調子である。その中でもノルマのない僕と星野さんなど最も暇な人間である。 最も暇な人間のひとりである僕の毎日の日課は次のとおりである。朝7時30分に起きて、パンと紅茶の朝食をとる。前の晩に飲み過ぎて寝坊したりすると朝食にありつけない。食後、上部甲板で体操をしてサンドバッグ相手にキックボクシングを1ラウンドやって、またベットにもぐりこむ。10時ころ起きて、午前中の日の光の弱い時間に上部甲板で日光浴をしながら本を読んだり、文章を書いたりする。11時30分に昼食をとり、またベットにもぐりこむ。 たまたま、スパ−カ−の記録を貸してくれる時には、その解析をしたり図を作ったりして暇をつぶす。3時半のお茶の時間の後には、いつも上部甲板でバレ−ボ−ルがはじまる。長い糸のついたボ−ルで1チ−ム3〜4人、7時ごろまでやっている。バレ−ボ−ルのない時は船首甲板に特設してあるプ−ルにつかる。 夕食前にシャワ−をあび、夕日の沈むのを見るとちょうど7時半の夕食の時間である。夕食後、上部甲板で南十字星をながめ、部屋にもどり、お祭りのない日は星野さんと2人でワインをちびりちびりやりながら、日本のことなど話す。9時に星野さんはベットへ、僕はデスクで少し図作業をしたり文章を書いたりして、10時ころベットへ入る。 1日中寝ている日もある。1日中同じところで寝ていると飽きるので、狭い船内でいろいろなところを探して寝る。1日中スパ−カ−の記録とにらめっこしている日もある。1日中暇をつぶすことを考えている日もある。暇つぶしに人の顔ばかり見ていると、団長のパブレンコバおばさんが心配して、PDRのワッチをやらないかといってくれた。しかし、ノルマを与えられるのはいやだといってことわる。 1日中酒を飲んでいる日もある。言葉が通じなくても酒を飲めばお互いにうまくいくこともあるものだ。1日中バレ−ボ−ルをやっている日もある。バレ−ボ−ルは乗船員と仲良くなるのに最高である。それに体にもいい。1日中本を読んでいる日もある。おかげで、持っていった本を2度読んだ。週刊誌はなめるように表紙から裏表紙まで読んだ。1日中文章を書いている日もある。持っていった2冊の大学ノ−トは字でうまってしまった。 こうゆう生活もたまにはいいもんだ。いままでの連続した生活から隔離されて、何の義務もない生活である。食事の時間に食堂にいけば、生きていられる。いままでの生活をふりかえり、頭の奥にしまっていた問題をひっぱり出して、いろいろと発想を展開させたり、のんびりと文章を書いてみたり、そして帰ってからの方針を考えたりする毎日である。 夕食後、星野さんと、『今頃、清水の連中は卒論や修論でさぞ大変でしょう。』といって、酒のさかなにワインを飲んでいる。 |
最終更新日:2001/06/10
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