モンゴル・ゴビ再び

20年ぶりのモンゴル・ゴビ
−恐竜化石産地とモンゴル社会の変化―


2023年8月 ぼしゅうちゅう157号に掲載
柴 正博



モンゴル、ネメグト盆地の地層
この崖の地層の下部がオビラプトロサウルスなどの恐竜化石が産出するバルンゴヨット層で、
上部がタルボサウルスなどが産するネメグト層

はじめに
 
 私は、1994年9月にモンゴル・ゴビに行った後も、私的に1995年、1997年、1998年、1999年、2000年、2002年とモンゴルを訪れ、1999年以外ゴビの化石産地などをまわってきました。しかし、2002年以降、仕事と家庭の都合で20年間もモンゴルを訪れることきができませんでした。

 私のモンゴル・ゴビの旅を最初から案内してくれたモンゴルの鉱床学者のトゥメンバイヤー氏とは、2002年以降も日本で何度か会う機会もあり、その都度モンゴルに招待されていましたが、それに応えられずにいました。

 そこで、退職し、さらに東海大学と東京農業大学での非常勤講師も終了した2023年にモンゴルを訪れようと、トゥメンバイヤー氏と連絡をとり計画しました。モンゴルに行く日程は、モンゴルで一番よい季節であり、モンゴルのお祭りであるナーダムが開催される7月にして、具体的に7月9日〜7月26日と決めて、ゴビには7月12日から23または25日まで行くことを計画しました。

 モンゴルにはほぼ20年前に行ったことから、モンゴルについてはある程度知識もあり、ゴビでのキャンプ生活もほぼなんの不安もありませんでした。そのため、出発前に現在のモンゴルの社会状況など調べるではなく、20年前を思い出して同じように準備を進めました。

 ここでは、今回訪れた恐竜化石産地についての簡単な紹介はもちろんですが、むしろ私が驚かされた20年前と今日のモンゴルの社会の変化もお伝えできればと思います。
 
モンゴル旅行の目的と概要


図1 2023年7月のモンゴルの旅のルート。@はキャンプ地とその順番。は観察地、は村や町

 今回のモンゴル旅行の目的は、モンゴルの友人たちに久しぶりに会うことと、恐竜化石産地での化石の産出状況やその地質を見学することでした。その目的地のおもなものは、まず@南ゴビの東部シャルツァフで恐竜の足跡化石産地の見学、A南ゴビの中部のダランザドカドで新らしくできた博物館の見学、Bその北側のアウグウランウラ周辺でゴビの友人たちと会うこと、Cバヤンザクとツグリキンシレーの恐竜化石産地の見学、そして南ゴビ西部のDネメグト盆地での恐竜化石産地の見学でした。

 結果的には、さらにその後に、Eとして中部ゴビのクウレンドゥクでの恐竜化石産地の見学が加わり、12日間のキャンプの旅となり、総走行距離が2,800 kmに及ぶものになりました(図1)。また、ウランバートルでは、今は分散されて2つの博物館に展示されているモンゴル・ゴビの恐竜化石標本の展示を見学してきました。

シャルツァフの恐竜足跡化石

  
図2 シャルツァフの恐竜の足跡化石観察地               図3 シャルツァフの恐竜の足跡化石

 シャルツァフ(モンゴル語で「黄色い崖」)の恐竜の足跡化石は、1995年7月にモンゴルと日本の林原博物館の合同調査隊(MJJPE)が発見し、翌年の1996年から本格的調査が行われ、2016年までに総計18,000もの足跡化石が発見されました。そして、2008年には、この恐竜足跡化石地点と足跡化石はモンゴルの天然記念物に指定され、この地区の408ヘクタールが保護地区とされ、2015年には他のモンゴルの恐竜産地も含めてユネスコの世界遺産に登録されました。

 私たち、すなわち私とトゥメンバイヤー氏、助手のウルマさん、運転手のマイフ氏は、ウランバートルを7月12日に出発して、シャルツァフには14日の昼前に着きました。そして、足跡化石の見学のために、金網で仕切られた保護地区に入りました。昨年できたばかりのビジターセンターの黄色い建物があり、その南側の崖には地層が露出していて、見学コースには木道が設置されていました。また、観察保護の建物がひとつと休憩して見学できる東屋が2つありました(図2)。木道を歩きながら竜脚類や鳥脚類などの足跡を観察し、観察保護の建物では電灯はつきませんでしたが暗闇に目が慣れてくるとたくさんの足跡があることがわかり、詳しく観察できました(図3)。

 この化石の発見や調査も大変だったと思いますが、この化石産地の重要性と保護の活動にはさらに大変な努力が必要だったと思われます。これについては、モンゴル科学アカデミー古生物研究所や日本の林原博物館メンバーのみなさんの努力に感謝したいと思います。

 シャルツァフの地層は、後期白亜紀のバインシレ層に対比される地層で、シャルツァフの崖ではほぼ水平に細粒砂岩層を挟むシルト層と粘土層が重なっていて、その特徴的な黄色いシルト層がその地層の中部に水平に挟まっていました。この地層は、沼地のようなところで堆積した地層で、そこを多くの恐竜が歩いていたと思われます。

南ゴビの自然と歴史の博物館

 
図4 南ゴビの自然と歴史の博物館                         図5 博物館のタルボサウルス

 南ゴビ県の県都であるダランザドカドは、1994年にこの町に私が来たときには、2つの4階建てのホテルのほかに草原の飛行場しかなかった町だったところです。しかし、今やたくさんのホテルを含む高層ピル群が立ち並び、たくさんの人々と車が行きかうシティーに大変身していました。

 この町に最近、新しい博物館ができたというので、行ってきました。なお、この近くにThe Dinosaur Garden of the Gobiという遊園地ができていて、夜のショーでは恐竜が動き回るのが見られると言われましたが、残念ながら時間がなくて、そちらは見学できませんでした。

 この博物館は、外見も立派(図4)でしたが、内部も立派で展示もしっかりしていました。入口を入ると、そこから見下ろせる明るい地下1階の恐竜ホールにはタルボサウルスの全身骨格標本があり、そこではその前で学芸員による来館者グループへの説明がされていました(図5)。

 展示はまず2階に上がり、南ゴビの鉱物のコーナーがあり、今回のツァーでここまでの道で通過して来たタヴァントルゴイ炭鉱とオユトルゴイ銅鉱山などの鉱物資源のコーナー、そして南ゴビでの人類と民族の歴史、そして最後に南ゴビの恐竜化石のコーナーがありました。

南ゴビの遊牧民の友人との再会

 
図6 トール氏の家族と                          図7 ソガラ氏の家族と石碑の前で  

 私が1994年から2002年までの間に、南ゴビを6回訪れたときに、トゥメンバイヤー氏の友人の南ゴビの遊牧民であるソガラ氏にいろいろとお世話になりました。ソガラ氏は、残念ながら5年前に亡くなられましたが、その奥さんや家族と奥さんの弟のトール氏の家族が南ゴビにいたので、想い出の地で会うことになりました。

 トール氏の家族とは、以前に恐竜化石を見学させていただいたアウグウラウラ(赤い山)の見えるゴビでお会いしました。2002年にそこに来たときには、まだ末っ子が生まれたばかりだった3人姉妹は、すでにみなお母さんになっていて、その姉妹の子供たちにも会うことができました(図6)。

 ソガラ氏の家族とは、ソガラ氏が私財を投じて石碑を建てた、チンギスハンの最初の遠征拠点となった地でお会いしました(図7)。ここではソガラ氏の長男の子供たちとも楽しい時間を過ごしました。ただし、ここでは、夕食の用意をしているときに砂嵐に遭遇して、砂嵐のおさまった夜遅くになって夕食が始まりました。

バヤンザクとツグリキンシレー

 
図8 バヤンザクの炎の崖の観察路                     図9 バヤンザクの炎の崖と砦岩 

 バヤンザクは、今から100年前の1922年にロイ・チャップマン・アンドリュース率いるアメリカ自然史博物館の調査隊が恐竜化石を発見したところです。ここは現在、シャルツァフと同様に保護地区となっていて、車で自由に立ち入れなくなり、入口のあるビジターセンターを通って、観察路を歩いて見学できるようになっています(図8)。

 ここは、私の以前の南ゴビの旅では、旅のメインのキャンプ地で、この崖の西側にある小高い丘の麓がいつものお決まりのキャンプ地でした。炎の崖は、この東西の連続した薄い褐色の砂岩の崖の西側側面が、日没のときにちょうどこの西側の面だけが太陽に照らされて赤く染まることから、その名前がつきました。この光景をもっともよく見ることができるのが、この崖の西側にある小高い丘の麓になります。私は、せっかく20年ぶりにここに来たのだからと思い、崖を降りて、炎の崖の先端にある砦岩の下まで行ってみました(図9)。

 次に訪れたツグリキンシレーは、バヤンザクの西にある恐竜化石の産出地で、ここの地層はバヤンザクと同じ後期白亜紀のドジュフタ層に相当する地層で、バヤンザクと同じようにプロトケラトプスやオビラプトル、恐竜の卵化石など保存良い化石が発見されています。ツグリキンシレーの台地の下の連続した崖には白い砂岩層が広く露出しています(図10)。ここの地層は、ほとんどが砂丘の堆積物で、保存の良い恐竜化石が多く発見されています。今回の私の旅では、恐竜の化石を発見できませんでした。

ネメグト盆地


図10 ツグリキンシレーの白い砂岩層の崖

 
図11 ネメグトでのモンゴル隊のキャンプ地を確認         図12 ネメグト層の砂岩層の基底にあった骨化石

 ツグリキンシレーから約200 km西にあるネメグト盆地には、白亜紀末期のネメグト層と、その下位のバルンゴヨット層が広く分布しています(表紙の写真)。バルンゴヨット層からは、アンキロサウルス、パキケファロサウルス、オビラプトロサウルスなどが、ネメグト層からはテリジノサウルス、タルボサウルス、サウロロフス、ガリミムス、インゲニア、ネメグトサウルスなど多数の恐竜化石が発見されています。私は、これまでの南ゴビの旅で、ネメグトに行ったことがなかったので、今回は是非行きたいと思っていました。

 ネメグト盆地は、広く、私たちが今回行った地点はネメグト盆地の東の入口のところで、今回は天候の悪化などにより時間をかけて広く見学することができませんでした。ここでは、1946年のモンゴルとソビエト科学アカデミー隊(MPE)と2016年のモンゴル隊のキャンプ地を確認しました(図11)。キャンプ地では、そこに置き去りにされていた骨化石の破片もありました。この周辺のネメグト層は、粘土層と斜交層理の発達する砂岩層の互層で、砂岩層の基底に骨化石が含まれているのを発見しました(図12)。

クウレンドゥク

 
図13 クウレンドゥクの地層                  図14 クウレンドゥクからのカメの甲羅の化石

 雨が降り始め、広い範囲で黒い雲が北西から湧いてきたために、私たちは、ネメグト盆地の調査を切り上げ、7月19日の午前11時ころに東に向かって出発しました。追いかけてくる砂嵐と雷雨の中、私たちの車はできるだけ早く走り、途中から舗装道路を使い、ダランザドカドに向かいました。雨も止んだ夕方にキャンプ地を決めて一泊して、翌日にダランザドカドを通過して、北に上がりツォクトオボーまで行きました。そこから草原の轍の道を通り、「ゴビ・カラバンサライ」という砂漠のリゾートホテルでランチをとり、その近くのツァガーンスラガで後期白亜紀の地層を見学しました。その後、北東に進み、花崗岩の山イヒ・ガッザリン・チュルまで行き、そこでキャンプしました。そして、翌日の7月22日に最後の観察地であるクウレンドゥクに到着しました。

 クウレンドゥクは、1993年にモンゴル−日本(林原博物館)隊が恐竜化石調査をした恐竜化石産地のひとつです。その地層は、前期白亜紀の地層とされ、おそらくフフテック層相当層と思われます。ここからは、イグアノドンやブシタッコサウルスなどの骨化石が発見されていて、その他にも貝や魚、カメの化石も発見されていてるとされています。

 ここでは、丘の谷間に露出する露頭と、大きな崖をつくる露頭の2ヶ所で調査しました。地層は、白色〜灰色の泥岩層と砂岩層の互層からなり、これらの地層は全体として南北走向で20〜40度東に傾斜していました(図13)。また、場所により、一部に粗粒な砂岩層がチャネルとして下位の地層を覆って分布していました。これらの地層は、おそらく湖のような環境に堆積したものと思われます。化石は、小さな骨片の化石とカメの甲羅の化石(図14)を発見しました。

 今回の南ゴビの旅の恐竜化石の観察地は、このクウレンドゥクで最後で、帰りの途中でもう一泊キャンプをして、翌日の23日の午後にウランバートルに帰り着きました。

恐竜化石の博物館

 
図15 スーパーマーケットの中のサウロロフス              図16 自然史博物館のタルボサウル    

 モンゴルの恐竜の化石標本は、以前の中央博物館(自然史博物館)がなくなったために、現在、古生物学研究所の一隅と、郊外のスーパーマーケットの中の古生物学博物館、それと以前のレーニン博物館の建物に移設された自然史博物館の中に展示されていました。

 スーパーマーケットの中の古生物学博物館の展示は、7月25日の午前中に見学に行きました。ここの展示は、マーケットの中の通路に展示してあったり(図15)、博物館というより特設展示場といったもので、とりあえず展示されているという感じでした。

 一方、自然史博物には、10年前にアメリカのオークションで10億ドルで落札される予定だったタルボサウルス(図16)の全身骨格標本が、モンゴル政府の努力で故郷の国に戻されたものが、恐竜コーナーの中央に展示されていました。それは、やはり迫力がありました。モンゴル政府は、現在、6.6ヘクタールの敷地に44,000平方メートルの新しい博物館施設を建設中だそうで、スーパーマーケットに展示してある標本や現在の自然史博物館の標本は、新しい博物館ができると移設されて、きちんと展示されると思います。それができるのが楽しみです。

モンゴルの旅を終えて

 
図17 1994年9月のウランバートル市街                    図18 2023年7月のウランバートル市街 

 今回、20年ぶりにモンゴルに行って一番驚いたのが、ウランバートル市街の変わりようでした。図17と18に、ウランバートル市街南部にあるザイサントルゴイという戦勝記念碑がある丘から、1994年と2023年に同じところを撮影した写真を示します。1994年には、ザイサントルゴイ周辺には、なにもなかったのですが、約30年後の2023年にはこの周辺に高層ビルやマンションが林立しています。この変化は、この10年間、いやこの5年間の間に起こったということで、今でもいくつものビルがこのり周辺で建設されています。

 ウランバートルの市街はこの20年でほぼ3倍の広がりになり、人口は約140万人と2倍以上になりました。それはモンゴルの人口のほぼ半数の人がウランバートルに集中していることになります。そのため、その変化も私にとっては想像以上で、私は20年前のウランバートルから、現在のウランバートルに降り立ったタイムトラベラーのような感覚になりました。

 また、ウランバートルの交通事情も大きく変わり、多くの人が車で市内中央に集中するため、渋滞と駐車場不足が日常化していました。なお、乗用車のほとんどが日本車で、その大半がトヨタのプリウスだったのも印象的でした。

 ウランバートルの変化と同じく、南ゴビの遊牧民の生活も大きく変化していました。遊牧民の現在の生活の必需品として、トラックや乗用車、オートバイ、ソーラパネル付きのトレーラーハウス、またプロバンガスコンロ、WIFIとスマホなどがあり、かつての乾燥牛糞を燃料に馬の乳を加工した乳製品を食材や飲料としていた自然の生活はあまりみられませんでした。

 南ゴビの村や町は、南ゴビにある炭鉱や鉱山が大規模に稼働している影響から、大きく変わっていました。特に炭鉱から採掘された石炭は、タイヤが42個もついている2連の大型トレーラーで日夜その南の中国国境まで運搬されていて、私たちはそのアスファルト道路を利用して、シャルツァフの南からダランザドカドまで行きました。そして、それらによる経済的効果によって、南ゴビは町も大きくなり、ウランバートルまでの南北と東部の町シャインサンドまでの東西へ延びる舗装道路ができ(一部建設中)、町や村にはスーパーマーケットもあり、生活も大きく変わっていました。

 生活が近代的になり、便利になることにより、人々が遊牧の生活から町の生活になり、ここ数年つづいた干ばつの影響もあり、南ゴビでは遊牧民の減少と孤立が進んでいると聞いています。モンゴルでは、「家畜は国民の富であり、国家の庇護下にある。」として憲法にうたい、遊牧の生活を国家の生活基盤としていますが、今後も自分たち自身を見失わずに、誇り高きモンゴル民族の国を発展させていってもらいたいと思います。

 これからも、機会をつくって私はモンゴルを訪れ、友人たちとさらに交流を深めていきたいと感じました。



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最終更新日:2023年11月6日