3. 近代自然科学の誕生 

 

 3-1.自然科学の研究と発明
 3-2.学会の創設
 3-3.ドイツの混乱
 3-4.オランダの科学
 3-5.ガリレオ・ガリレイ
 3-6.チコ・ブラーエとケプラー

  1. 古代の自然科学
  2. ルネッサンスと近代自然科学
  3. 近代自然科学の誕生
  4. 自然の認識と産業革命
  5. 水成論と火成論
  6. 古生物学と層位学の誕生
  7. 地球の歴史と生物進化

 



3-1. 自然科学の研究と発明

 ルネッサンス以後のヨーロッパでは,鉱山や航海などの産業がマニファクチャーを中心に発展しました。そうした産業の要求にうながされ,力学や鉱物学,化学などの研究活動がさかんに行われました。特に,市場の拡大競争は,航海術に必要な天体の運動や潮汐時刻の決定,地磁気に関する問題を解決する必要があり,天文学や地球に関する学問を発展させました。

 また,この時期に産業技術の進歩により,1590年ころオランダで望遠鏡と顕微鏡が発明されました。特に望遠鏡はその後の天文学の発展に寄与しました。17世紀にはいると,温度計や気圧計も発明され,このような研究技術の発展は自然科学の研究により客観的なデータを供給するのに役立ちました。


3-2. 学会の創設

 このような近代自然科学の研究がはじまった17世紀には,ヨーロッパ北部の諸国で学会がが創立され,自然科学の研究者たちの団体のなかでの知識の交流や,科学者としての共通の立場で相互批判を行い前進していく場がつくられました。その主なものとしては,1645年にはロンドンにロイヤル・ソサイエティが,1663年にパリ・アカデミーが創立しました。

 ロイヤル・ソサイエティの誕生は,革命や共和制の誕生という混乱のさなかに行われ,貴族のなぐさみの場としての性格がはじめは強かったようです。しかし,ソサイエティでは,あらたな法則や事実の発見者が会員の前で実験と証明を繰り返し,会員の承認を求めるという方法がとられていました。特に天文学上の問題についての話題がよくとりあげられ,この会の協力で1676年にグリニッジ天文台が創設しました。


3-3. ドイツの混乱

 フランスやイギリスに対して,その当時のドイツは新旧キリスト教派の宗教争乱にはじまり,ドイツ・スペインのハプスブルグ家に対する新教諸国が展開した30年戦争(1616〜48年)によって,ドイツの国土は荒廃し,人口の3分の1を失いました。

 この結果,ドイツは 300ちかくの専制君主が統治する領邦国家となり,1871年にビスマルクによってドイツが統一されるまでこの状態がつづきました。ドイツは30年戦争で疲弊し,人々は流亡し,そのためにドイツでは長い間科学研究が中断していました。


3-4. オランダの科学

 オランダをふくむネーデルランド地域は,12世紀の十字軍遠征に毛織物工業や国際商業の中心として繁栄し,都市が発達しました。14世紀にブルゴーニュ公によって統一され,血縁関係によって15世紀にハプスブルグ家領となり,その後スペイン王の支配を受けました。しかし,スペインの圧制と新教徒への弾圧により独立戦争が起こり,17世紀にオランダ連邦共和国として独立しました。17世紀のオランダは,アムステルダムを中心にヨーロッパ随一の海上貿易国として栄え,ポルトガルやスペインにかわって海上権を制しました。この頃,ライデン大学は,ヨーロッパきっての進歩的な大学として,各国の人々がきそってオランダに学んだそうです。

 オランダの海外の領土の拡大は,その後イギリスとの対抗を生み,イギリス−オランダ戦争やフランスとの交戦のすえ,18世紀にはイギリスに海上貿易国の位置を譲り渡しました。それ以後,オランダはまたたく間に没落し,その自然科学も同様でした。

 日本では,明治維新になるまで,西洋の自然科学はオランダの学問(蘭学)でした。それは,1637年の島原の乱にオランダが幕府をたすけたので,オランダだけに通商が許され,それ以後オランダは日本にとって,西洋文化をすいこむパイプになりました。日本がオランダの科学を学びはじめたのは17世紀後半からで,オランダの国力や文化が最も繁栄した時期をすでにすぎていました。


3-5. ガリレオ・ガリレイ

 ガリレオ・ガリレイは,1564年にイタリアのピサで生まれました。父はおちぶれた貴族でしたが,数学と音楽を愛好していて,音楽についての対話を内容とする著書もありました。ガリレイは,はじめ医学を学びましたが,途中で数学と物理学に転向しました。彼は,物体の落下実験や振子の等時性の発見などで有名ですが,望遠鏡が発明されて天体観察に魅せられ,1600年代以降天文観察をおこない,重要な発見を数多く発表しました。

 1610年に「星界の使者」という本を発表し,その中で月に山や谷があること,木星に衛星があること,金星に食が見られること,太陽に黒点があること,太陽は自転していること,金星の衛星が月と同じように満ちたり欠けたりしていることなどを発見しました。これらの発見の多くは,コペルニクスの地動説を支持するものでした。

 その後,ガリレオは田舎の別荘にこもって,コペルニクスの宇宙体系を支持する「二大世界説についての対話」という本を書き,1632年に出版します。ガリレオを異端者とする人たちは,この本を没収し,ガリレオを宗教裁判にかけました。70才になるガリレオは,強権に屈して,異端審問館の前で地球は回っていないことを宣言させられました。


3-6. チコ・ブラーエとケプラー

 チコ・ブラーエは,1546年にスウェーデン(現在のデンマーク)で生まれ,プラハ(チェコスロバキア)で長年にわたり精密な天体観測をおこないました。特に,火星の運行の観測については,16年という長期にわたる精密な資料を残しました。ブラーエは,最初コペルニクスの地動説を支持していましたが,地球が公転しているとすると生じる恒星の視差が測定できないことから,コペルニクス地動説に反対しました。

 ケプラーは,1571年に南ドイツで生まれ,神学校の時にコペルニクス説を信奉する教師メストリンに出会い,天文学を学びます。新教ギムナジウムで数学と修辞学の講義をするかたわら天文学の研究を進め,「天文学神秘」という論文を発表しました。しかし,プロテスタント追放などによって,彼は職を追われ,途方にくれました。この時,彼を救ったのがチコ・ブラーエで,ブラーエはケプラーをプラハに招き,自分の計算助手にしました。

 ブラーエの死後,彼の膨大な観測資料がケプラーのもとに残りました。ケプラーは,ブラーエと対照的に観測よりも理論的才能にすぐれていたため,その膨大な資料を整理・解析して,1609年に「新天文学」という本を出版し,のちに「ケプラーの第1法則・第2法則」とよばれる惑星の運行に関する法則を述べました。この2つの法則は,惑星の軌道が円であるという既成概念を捨てて,楕円軌道を提唱しています。

 ケプラーは,その後1616年に「世界の調和」という大著を著し,その中で「第3法則」として知られる「惑星の公転周期のニ乗と惑星と太陽の平均距離の3乗の比は一定である」という関係を述べました。ケプラーは,このような偉大な発見をしたにもかかわらず,ほとんど認められず,さらにプロテスタントに対する迫害をうけて,野たれ死に同然に1630年に悲劇的な生涯を終えました。ケプラーの法則の真価は,その後50年以上たって,アイザック・ニュートンによってはじめて認められます。ニュートンは,「もし,ケプラーの法則がなかったら,自分の万有引力の法則もなかった」と言っています。

 


4. 自然の認識と産業革命

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最終更新日:2000/05/06

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