1. 古代の自然科学 |
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人は,石をひろってはじめて道具として使いました。その石はやがて,使いやすいように加工され,石器といえるものになりました。石器には,ちみつでかたい石や黒曜石などのガラスが用いられました。このような石器の材料ははやい時期から,交易によって広く用いられました。 1-2. ナイルの氾濫 古代エジプト文明の栄えた地はナイル川の河口氾濫原にあたり,メソポタミヤ文明の地はチグリス・ユーフラテス川の沖積平野にあります。今から6000年前の海面が高かった時代から,海面が低下しはじめ,海がひいて現れた土地の上に人々はおりて農耕をはじめました。 1-3. ギリシャ人の自然科学 紀元前10世紀ごろ,ギリシャ半島を中心にいくつかの種族からなるギリシャ人が住み着きました。彼らは自らの勢力範囲を維持し,拡大するために村落の周囲に城壁を築き,それを中心とした「都市国家」を形成しました。ギリシャ人は,征服した民族を奴隷として,都市国家は奴隷制の上に発展していきました。紀元前7世紀には,金属片を貨幣として使用し,貿易は地中海西部から小アジアにわたる規模でおこなわれていました。 1-4. アレクサンドリア時代
この時代には,幾何学を大成したユークリッドやアルキメデス,地球の大きさを測ったエラトステネスなどがいます。紀元前 250年には大博物館がつくられ,その中には彫刻や絵画のほかに70万巻にもおよぶ書物が集められた図書館があったといわれています。 アレキサンドリアで花開いた自然科学も,その後のプトレマイオス王朝の混乱によって,天文学は星占術に,化学・鉱物学は練金術へと変質していきました。 1-5. ローマ時代の科学
ローマ帝国の軍人であり,学者でもあったプリニウスは,それまでの文献を調べたり,帝国の各地を訪れたときにそこで見たり聞いたりしたものなど,自然界の事物を書きとめたHistoria natureae「博物誌」という本を著しました。この本は全体で37巻からなり,多くは動物や植物のことですが,最後の5巻では金属や宝石,石材などに利用される岩石が扱われいます。 プリニウスは,紀元79年のヴェスビアス火山の噴火のとき,もっと近くで観察するために軍艦で近づき,友人を救出する際に爆発にまきこまれて,なくなりました。彼の「博物誌」はローマ人の自然観を後世に伝えるとともに,中世を通じて自然の百科事典として尊重されたということです。 山岳成因説の父といわれるスイトラボーは,紀元前63年に生まれたギリシャ人ですが,ローマに住んで,ヨーロッパやアジア,アフリカを旅行し,山のできかたについて興味ある説を述べています。ローマ帝国の本土であるイタリアは,火山と地震の多い国だったので,彼の考えには火山や地震に関連するものが多くあります。 彼は,島の成因については2つに分けて,大陸の海岸近くにある島は地震によって大陸から分離したもので,大陸から離れたところの島は地下から火山によってもちあげられてできたと考えました。大陸も火山の力によってもちあげられたところと考え,火山活動は地下にたまったガスが噴き出したものと述べています。ストラボーは,それ以外にも地形や水による侵食作用,潮汐についても正しい考えをもっていました。 ネロ皇帝の侍医であったセネカは,「自然問題」という本を著し,その中で,地球はもともと水であったとし,地震や火山も地球内部のガスの膨張によってひきおこされると考えました。そして,火山は地球内部の溶けた物質と地表をつなぐものとしています。 1-6. ローマ帝国の崩壊 東ローマ帝国のコンスタンチヌス大帝がキリスト教の勢力を利用して,ローマ帝国の統一をしようと考え,その禁令をとき,しいたげられた人々のみかたになっていた革新的なキリスト教は,国家公認の宗教となり,しだいに支配者階級の御用宗教となり,のちに中世の封建制社会を精神的にささえる核となります。 コンスタンチヌス大帝の死後,ゲルマン民族の大移動によって,ローマ帝国は崩壊し,それまでの文化的なものはすべて破壊されました。ヨーロッパでは,その文化的な破壊の上に,封建的な国家がつくられ,その後の約1000年のあいだキリスト教の宗教的な圧迫によって科学の前進がまったくみられません。 1-7. アラビア人の科学 古代ギリシャからローマに受け継がれた科学的な遺産は,ヨーロッパで戦争により破壊され,その後キリスト教によって闇に押し込められますが,アラビア人の手によって発掘され,ヨーロッパより東の地域で受け継がれ,発展することになります。 紀元7世紀にマホメットが,西アジアからアフリカ,ヨーロッパの一部を支配するサラセン帝国をつくり,イスラム教を国教と定めました。彼らは狂信的に教義を信奉し,征服した諸民族の文化をはじめは破壊しましたが,ゲルマン民族よりも一般に寛大だったようです。 彼らは,ギリシャやローマ時代の科学上の古典をアラビア語に翻訳し,首都バグダットには書籍商や天文台,大図書館もあったそうです。ここでは,学校や学会もつくられ,学術研究のために各地にすんでいる学者との交流もさかんにおこなわれていました。アラビア人は,その東にある東洋とも交流をもち,羅針盤などにみられるように中国の科学も利用した文化が混在していました。 アラビア人は,自然を研究するのに,ギリシャ時代の古典にさかのぼりましたが,ギリシャ人が単に頭の中で自然を考えたのとはちがって,実際の自然を観察し,測定と実験によって研究を進めていきました。ビルニーは,中世最大の科学者のひとりといわれ,彼は数学と天文学にひいでていたそうで,子午線を用いて地球の大きさの測定をおこなったと言われています。また,光線の幾何学もアラビア人によって進歩したもので,1050年ころにはレンズを製作していました。
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最終更新日:2000/05/06
Copyright(C) : Masahiro Shiba