1. 古代の自然科学 

 

1-1.人と石との出会い
1-2.ナイルの氾濫
1-3.ギリシャ人の自然科学
1-4.アレクサンドリア時代
1-5.ローマ時代の科学
1-6.ローマ帝国の崩壊
1-7.アラビア人の科学

  1. 古代の自然科学
  2. ルネッサンスと近代自然科学
  3. 近代自然科学の誕生
  4. 自然の認識と産業革命
  5. 水成論と火成論
  6. 古生物学と層位学の誕生
  7. 地球の歴史と生物進化

 



1-1. 人と石との出会い

 人は,石をひろってはじめて道具として使いました。その石はやがて,使いやすいように加工され,石器といえるものになりました。石器には,ちみつでかたい石や黒曜石などのガラスが用いられました。このような石器の材料ははやい時期から,交易によって広く用いられました。

 人は,集団をつくり,集団生活の中でひとりの経験がみんなのものとなり,つぎの世代に受け継がれていきました。火の使用と言語の発達は,人の生産力を向上させ,社会生活がより複雑になりました。

 人々はさらにすぐれた生産用具をもとめ,鉱石を利用して銅を加工し,銅時代やその後の青銅器時代,さらに鉄器時代と発展していきました。鉱石と同様に,宝石も人々が石に注目したものでしょう。さまざまな種類の宝石が発見され,装飾品として利用されました。また,人は石を建材として利用し,巨大な宮殿やみごとな彫刻をつくり出しました。


1-2. ナイルの氾濫

 古代エジプト文明の栄えた地はナイル川の河口氾濫原にあたり,メソポタミヤ文明の地はチグリス・ユーフラテス川の沖積平野にあります。今から6000年前の海面が高かった時代から,海面が低下しはじめ,海がひいて現れた土地の上に人々はおりて農耕をはじめました。

 そのころのエジプトやメソポタミヤ地域は,現在のように乾燥した気候ではなく,インド洋のモンスーンに強く影響をうけた湿潤温暖な気候で,しばしば川の氾濫がおこりました。洪水によって肥よくな土壌が形成され,農耕が発展しました。洪水のために土地の境界がわからなくなってしまい,測量や幾何学が発展しました。また,洪水の予測などから,天文学が発展し,紀元前4236年には太陽暦(エジプト暦)も生まれました。

 1年を 365日にわけた太陽暦は,ナイルの氾濫が毎年同じ時期(日の出の直前に東の水平線にシリウスが現れる日)におこることから設定されました。古代エジプトには,紀元前3000年にすでに図書館があり,天文学や医学,数学などの書物がおさめられていました。ナイルの氾濫は,自然科学を生み育てた母でした。


1-3. ギリシャ人の自然科学

 紀元前10世紀ごろ,ギリシャ半島を中心にいくつかの種族からなるギリシャ人が住み着きました。彼らは自らの勢力範囲を維持し,拡大するために村落の周囲に城壁を築き,それを中心とした「都市国家」を形成しました。ギリシャ人は,征服した民族を奴隷として,都市国家は奴隷制の上に発展していきました。紀元前7世紀には,金属片を貨幣として使用し,貿易は地中海西部から小アジアにわたる規模でおこなわれていました。

 ギリシャ人の自然科学は,このようなギリシャ人の活動とともに急速に発展しました。彼らの自然科学に対する考え方の特徴は,この世にある物質や現象を抽象的に考察し,万物はただひとつのものから発展してできたと考えました。タレスは,紀元前 620年に「万物の根源は水である」と述べています。

 タレスと同じ時代のアナキンマンドロスとアナクサゴラスは,地球を中心に他の天体がまわる天動説をとなえ,ピタゴラスは紀元前5世紀に地動説をとなえました。四元素説(世界の根源をなすものは土・火・空気・水)をとなえたエンペドクレスは,化石を人間が地上にあらわれる前の動物の骨であると述べています。

 ギリシャ人の科学は,奴隷制の上になりたった都市国家の中で発展したために,直接自然と接して生まれたものではありませんでした。そのため,抽象的なものは異常に発展しましたが,物に即したものはいくつかの例外を除いて見るものがありませんでした。例外とは,博物学におけるアリストテレスと医学におけるピクラテスです。アリストテレスの弟子のテオフラストスは,鉱山や自然を観察して,「石について」という書物をあらわして,鉱物や化石について記載しています。

 紀元前6世紀ごろ,イタリア南部のクロトンという町でピタゴラスを中心に集まった人たちが,活発に研究をおこなっていました。しかし,彼らは一種の秘密結社をつくり,彼らの得た知識や発見を他に公開することをしませんでした。


1-4. アレクサンドリア時代


 マケドニアのアレキサンダー大王がギリシャを征服してから,自然科学の研究の中心はアテネからアレキサンドリアにうつりました。大王の死後に帝国は3つに分割しますが,アレキサンドリアを中心とするプトレマイオス王朝では自然科学が発展します。

 この時代には,幾何学を大成したユークリッドやアルキメデス,地球の大きさを測ったエラトステネスなどがいます。紀元前 250年には大博物館がつくられ,その中には彫刻や絵画のほかに70万巻にもおよぶ書物が集められた図書館があったといわれています。

 アレキサンドリアで花開いた自然科学も,その後のプトレマイオス王朝の混乱によって,天文学は星占術に,化学・鉱物学は練金術へと変質していきました。


1-5. ローマ時代の科学


 ローマの都市国家は,紀元前3世紀ごろにイタリア半島を征服し,海外進出にのりだして地中海周辺を平定しました。彼らは,「力がすべて」「すぐに役立つもの以外は値打ちがない」という考えが強く,すぐに役立たないギリシャ人のような思想や思弁を軽蔑しました。ローマ人は,それまでに築かれた数学や力学を使って土木・建設工事や軍事技術を発展させました。

 ローマ帝国の軍人であり,学者でもあったプリニウスは,それまでの文献を調べたり,帝国の各地を訪れたときにそこで見たり聞いたりしたものなど,自然界の事物を書きとめたHistoria natureae「博物誌」という本を著しました。この本は全体で37巻からなり,多くは動物や植物のことですが,最後の5巻では金属や宝石,石材などに利用される岩石が扱われいます。

 プリニウスは,紀元79年のヴェスビアス火山の噴火のとき,もっと近くで観察するために軍艦で近づき,友人を救出する際に爆発にまきこまれて,なくなりました。彼の「博物誌」はローマ人の自然観を後世に伝えるとともに,中世を通じて自然の百科事典として尊重されたということです。

 山岳成因説の父といわれるスイトラボーは,紀元前63年に生まれたギリシャ人ですが,ローマに住んで,ヨーロッパやアジア,アフリカを旅行し,山のできかたについて興味ある説を述べています。ローマ帝国の本土であるイタリアは,火山と地震の多い国だったので,彼の考えには火山や地震に関連するものが多くあります。

 彼は,島の成因については2つに分けて,大陸の海岸近くにある島は地震によって大陸から分離したもので,大陸から離れたところの島は地下から火山によってもちあげられてできたと考えました。大陸も火山の力によってもちあげられたところと考え,火山活動は地下にたまったガスが噴き出したものと述べています。ストラボーは,それ以外にも地形や水による侵食作用,潮汐についても正しい考えをもっていました。

 ネロ皇帝の侍医であったセネカは,「自然問題」という本を著し,その中で,地球はもともと水であったとし,地震や火山も地球内部のガスの膨張によってひきおこされると考えました。そして,火山は地球内部の溶けた物質と地表をつなぐものとしています。


1-6. ローマ帝国の崩壊

 東ローマ帝国のコンスタンチヌス大帝がキリスト教の勢力を利用して,ローマ帝国の統一をしようと考え,その禁令をとき,しいたげられた人々のみかたになっていた革新的なキリスト教は,国家公認の宗教となり,しだいに支配者階級の御用宗教となり,のちに中世の封建制社会を精神的にささえる核となります。

 コンスタンチヌス大帝の死後,ゲルマン民族の大移動によって,ローマ帝国は崩壊し,それまでの文化的なものはすべて破壊されました。ヨーロッパでは,その文化的な破壊の上に,封建的な国家がつくられ,その後の約1000年のあいだキリスト教の宗教的な圧迫によって科学の前進がまったくみられません。


1-7. アラビア人の科学

 古代ギリシャからローマに受け継がれた科学的な遺産は,ヨーロッパで戦争により破壊され,その後キリスト教によって闇に押し込められますが,アラビア人の手によって発掘され,ヨーロッパより東の地域で受け継がれ,発展することになります。

 紀元7世紀にマホメットが,西アジアからアフリカ,ヨーロッパの一部を支配するサラセン帝国をつくり,イスラム教を国教と定めました。彼らは狂信的に教義を信奉し,征服した諸民族の文化をはじめは破壊しましたが,ゲルマン民族よりも一般に寛大だったようです。

 彼らは,ギリシャやローマ時代の科学上の古典をアラビア語に翻訳し,首都バグダットには書籍商や天文台,大図書館もあったそうです。ここでは,学校や学会もつくられ,学術研究のために各地にすんでいる学者との交流もさかんにおこなわれていました。アラビア人は,その東にある東洋とも交流をもち,羅針盤などにみられるように中国の科学も利用した文化が混在していました。

 アラビア人は,自然を研究するのに,ギリシャ時代の古典にさかのぼりましたが,ギリシャ人が単に頭の中で自然を考えたのとはちがって,実際の自然を観察し,測定と実験によって研究を進めていきました。ビルニーは,中世最大の科学者のひとりといわれ,彼は数学と天文学にひいでていたそうで,子午線を用いて地球の大きさの測定をおこなったと言われています。また,光線の幾何学もアラビア人によって進歩したもので,1050年ころにはレンズを製作していました。



2. ルネッサンスと近代自然科学

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最終更新日:2000/05/06

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